鎌倉手帳(寺社散策)


義経の腰越状


編集:岡戸事務所
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腰越状を書いた満福寺
 源義経は、平家を滅ぼし京では英雄であったが、武士の社会を創りたい鎌倉の兄頼朝は、後白河法皇に近づき過ぎた弟義経に対し、鎌倉に入ることを許さないという厳しい措置をとった。
 以下の文は、頼朝の側近大江広元あてに送った義経の腰越状を現代語にしたもの。
(「鎌倉こども風土記」より。)

参考:梶原景時 義経の伝説と亀井神社(okadoのブログ)



 恐れながら申し上げますが、私源義経は、御代官の一に選ばれ、朝敵を滅ぼし、先祖の恥をそそぎました。当然、行賞をいただけるはずのものを、意外の讒言によって足止めされ、そのうえ、何の罪も犯さないのにお叱りを受けるだけで、功績はあっても罪はない身に、御勘気をうけるのはあまりにも情けなく、むなしく涙をのんで います。

 讒言の正否をただすこともなく、鎌倉へも入れられず、私の気持ちを述べることもかなわず、数日をむなしく過ごしました。お会いしたいと思ってもできないのは、義経の運がつたないのか、前世の因果によってきたるところか、まことに残念の至りに思います。

 ここに、再び申し開きの状を書くのは、何か感傷的でありますが、義経が生まれていくばくもなく故頭殿(源義朝)は御他界になり、孤児となって、母の懐中に抱かれ、大和国宇陀郡竜門に身を潜めて以来というもの、一日とて安らかな思いなく、かいもない命をながらえていた次第です。

 しかし時を得て、平家一族追討のために上洛し、まず木曽義仲を討ち、更に平家掃滅のため、ある時は岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めることもいとわず奮戦しました。すべて亡父義朝の悲しみをしずめ、源氏再興の宿願を達したいためにほかならず、義経個人の野心など、つゆばかりもありません。それにもかかわらず、かように深く御勘気をうけては、この義経の心をどのように、お伝えして解っていただけるのか、神仏の加護に頼るほか道はないように思われ、数度にわたって起請文を差し上げましたが、いまだにお許しがないありさま、せめてここに貴殿の御慈悲を仰ぎ、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝え、平安と幸福を得たいと念願している次第です


 
元暦二年六月五日               源義経

   進上  因幡前司守 殿


※因幡前司守=大江広元




義経と弁慶
 結局、頼朝の許しはなく、京に引き返すことになる。
 その後、頼朝追討の院宣をいただくが失敗し、奥州の藤原秀衡にかくまわれる。
 しかし、秀衡が亡くなると、頼朝を恐れたその子泰衡に攻められ自刃に追い込まれてしまう(1189年(文治5年))。

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