鎌倉手帳(寺社散策)

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奈良の大仏
東大寺:銅造盧舎那仏坐像

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







東大寺の大仏


 「奈良の大仏」として知られる東大寺の「銅造盧舎那仏坐像」は、聖武天皇の発願によって造立された。

 像高14.7メートルの巨大な仏像で国宝に指定されている。 





〜聖武天皇の大仏造立〜

 740年(天平12年)、河内国の知識寺に詣でた聖武天皇は、盧舎那仏を拝んだ。

 その折、仏に仕える者が協力して寺を建て盧舎那仏を鋳造したことを聞いて大いに感動し、「朕も造り奉らん」と思い立ち、盧舎那仏の造立を強く願ったのだという。

 さっそく、聖武天皇は、良弁を主宰とし、盧舎那仏の教えを説く「華厳経」の研究を開始し、743年(天平15年)10月15日に「大仏造顕の詔」を発した。


東大寺の大仏


庶民に信仰された大仏様と観音様(okadoのブログ)



〜盧舎那仏〜

 「盧舎那仏」とは、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味で釈迦如来の別名。

 左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っている。


〜大仏造顕の詔〜

 聖武天皇の盧舎那仏を造りたいという念願が込められた詔は、「国中の銅を尽くして尊像を鋳造し、山の木を伐採して仏殿を造り、知識(同志・協力者)を集めて完成させる」というもので、これまでの官寺の造営とは異なり、広く国民に助勢を求めるものだった。


〜行基による勧進〜

 大仏造立の勧進に起用されたのは、貧民救済・治水・架橋などの社会事業活動を行い、民衆から大きな支持を得ていた僧行基。

 745年(天平17年)には、朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られ、東大寺の四聖の一人に数えられている(参考:行基堂)。



 当初、大仏の造立は、紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市信楽町)で始められた。

 しかし、745年(天平17年)には都が平城京へ戻され、大仏造立も東大寺の地で改めて始められた。

 大仏の鋳造が開始されたのは747年(天平19年)だと伝えられ、この頃から金光明寺が東大寺と呼ばれるようになったと考えられている。


 聖武天皇は、当時、災いから逃れるため遷都を繰り返していたが、官民からの反発が大きく、最終的には平城京へ戻っている。


 大仏蓮座の鋳造にどのくらいの期間を要したか不明だが、大仏本体の鋳込みは、747年(天平19年)9月29日から749年(天平勝宝元年)10月24日までに計8回行われたと記録されている。

 そして、752年(天平勝宝4年)4月9日、鋳造が終わった盧舎那仏の開眼供養が行われた。

 ただし、この時まだ大仏は完成しておらす、仕上げ作業が755年(天平勝宝7年)正月までかかったという。

 その翌年5月2日、聖武天皇は亡くなっている。







〜兵火による焼失〜

東大寺の大仏

 大仏は、1180年(治承4年)には平重衡の兵火によって、1567年(永禄10年)には松永久秀の兵火によって焼失したが、その都度再建されている。

 しかし、松永久秀の兵火後は、大仏殿は仮堂で復興されたが、1610年(慶長5年)の大風で倒壊し、大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで露坐の状態が続いていた。

 現在の大仏は、1691年(元禄4年)に完成したもので、翌年開眼供養が行われ、大仏殿は1709年(宝永6年)に落慶したもの。


〜東大寺の再興と源頼朝〜

 1184年(元暦元年)、源頼朝は、大仏の鍍金料として千両の砂金を寄進している。

 その翌年、金が施された大仏の開眼供養が行われた。


南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜

東大寺再建の勧進状

奈良の大仏と鎌倉の大仏

東大寺の再興に尽力した陳和卿









東大寺
東大寺
(世界文化遺産)

 東大寺は、聖武天皇が建立した寺。全国に設置された国分寺の総本山として信仰された。
 本尊は奈良の大仏として知られる「銅造盧舎那仏坐像」


奈良県奈良市雑司町406−1

JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分
近鉄奈良駅から徒歩約20分


東大寺は世界文化遺産
(古都奈良の文化財)


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