鎌倉手帳(寺社散策)

源頼朝をめぐる大阪 源義朝最期の地



手向山八幡宮
〜奈良:東大寺の鎮守〜

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







手向山八幡宮
神門


 紅葉の名所として知られる手向山に鎮座する手向山八幡宮は、749年(天平勝宝元年)、東大寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請され「鎮守八幡宮」と呼ばれていた。

 当初は平城宮南の梨原宮に創建され、その後に東大寺大仏殿南方に移されたという。

 1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討によって焼失するが、東大寺大勧進重源によって1188年(文治4年)に再建され、10年後の1197年(建久8年)には新造の社殿への遷宮が行われている。

 その後、1250年(建長2年)、鎌倉幕府五代執権の北条時頼によって現在の地に再建された。

 明治の神仏分離によって東大寺から独立し、御神体だった快慶作の「僧形八幡神坐像」(国宝)は、東大寺勧進所八幡殿に安置されている。


祭神 応神天皇
姫大神
仲哀天皇
神功皇后
仁徳天皇


手向山八幡宮 手向山八幡宮


南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜



僧形八幡神坐像
僧形八幡神坐像


 1197年(建久8年)の遷宮に際して重源は、神体として、弘法大師の作でもとは神護寺に伝えられ、当時は鳥羽勝光院にあった「八幡神画像」の下賜を朝廷に申し出ている。

 しかし、石清水八幡宮もこの画像を所望し、神護寺文覚はその返却を求めていた。

 最終的にはもとの所持者である神護寺に返却されている。

 その後、神体として造立されたのが現在東大寺勧進所八幡殿に安置されている「僧形八幡神坐像」。

 像内銘文によれば1201年(建仁元年)の造立で快慶によるもの。


 神体の完成が遷宮から4年後のことであることから、遷宮に際しては「重源の自筆掛物」が神体として安置されていたという説がある。



〜東大寺大勧進僧行勇自筆書状〜

 東大寺鎮守八幡宮は、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討によって焼失後、重源によって再建されたが、1237年(嘉禎3年)、勧進所によって千手院岡に遷座することが決定された。

 東大寺には、移転の次第を公家に奏聞すべきか否かについて書かれた第三代大勧進行勇の書状が残されている(国重文)。

 ※手向山八幡宮の現在の鎮座地は東大寺千手院跡といわれている。


東大寺の復興:重源と鎌倉の禅僧栄西・行勇(okadoのブログ)





手向山八幡宮
本殿
手向山八幡宮
若宮

手向山八幡宮住吉社
住吉社
(鎌倉時代:重文)
手向山八幡宮末社
末社
(江戸時代:県重文)

手向山八幡宮神楽所
神楽所
手向山八幡宮
東照宮
(神楽所)


手向山八幡宮
菅公の腰掛石

 菅原道真が「このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」と詠んだときに腰を掛けた石だという。
 京都北野天満宮には、その史実により、江戸時代に楓の苗木が奉納されている。


手向山八幡宮宝庫
宝庫
(奈良時代:重文・校倉)

 東大寺法華堂経庫も同じ造りの建物。







手向山八幡宮
源頼光の鬼退治の絵
(神楽所壁画)

 源頼光は清和源氏の三代目。摂津国多田を相続したことから、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれた(参考:六孫王神社)。

 頼光には、日本最強の妖怪とされていた「酒呑童子」(しゅてんどうじ)」の一党を討ち取ったという伝説が残されている。

 ※1180年(治承4年)に、以仁王とともに平家打倒の挙兵した源頼政は摂津源氏。



〜転害会〜

 10月5日に行われる祭礼。

 749年(天平勝宝元年)の宇佐八幡宮からの遷宮の際、転害門から入ったことに由来すると伝えられ、転害門まで神輿渡御が行われる。


転害門
転害門


〜鶴岡八幡宮の舞楽面と菩薩面〜

 鶴岡八幡宮に伝えられている「舞楽面と菩薩面」は、源頼朝東大寺大仏殿の落慶供養に参列した際、手向山八幡宮から贈られたものと伝えられている。

 菩薩面は「菩薩舞」に用いられた舞楽用の面だったというが定かではない。


菩薩面
舞楽面と菩薩面
(鶴岡八幡宮)









東大寺
東大寺
(世界文化遺産)

 東大寺は、聖武天皇が建立した寺。全国に設置された国分寺の総本山として信仰された。
 本尊は奈良の大仏として知られる「銅造盧舎那仏坐像」


奈良県奈良市雑司町406−1

JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分
近鉄奈良駅から徒歩約20分


東大寺は世界文化遺産
(古都奈良の文化財)


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