奈良・京都

奈良:東大寺の転害門

岡戸秀仁
編集:岡戸秀仁







東大寺転害門


 東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構(国宝)。

 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。

 寺の西北にあるので「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保路門」とも呼ばれている。

 毎年10月5日の「転害会」(手掻会・てがいえ)では、基壇上で手向山八幡宮の祭礼が行われる。

 京都清水寺轟門の妻や天井の構造は、転害門の縮小版だという。





〜いろいろな名で呼ばれる門〜

 「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入り、みちみち殺生が禁止されたから、または、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行われるから「転害門」と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこの門のところで手招きしたから「手掻門」と書いたともいう。

 また、大仏殿落慶供養に参列した源頼朝を暗殺するために悪七兵衛景清が隠れていたという伝承から「景清門」と呼ぶともいう。

 頼朝暗殺を企てた平景清の伝説


手向山八幡宮
手向山八幡宮


 平景清は、京都の石清水八幡宮を参拝した源頼朝を狙ったとも伝えられている(参考:景清塚)。







〜清水寺の爪形観音〜

 清水寺随求堂前に置かれた石灯籠の中には、源頼朝を暗殺しようとして捕らえられた平景清が自らの爪で彫ったという千手観音像が祀ってあるという。


景清爪形観音
随求堂


源頼朝を暗殺しようとした平景清の伝説(okadoのブログ)



〜源頼朝からもらった鞍を転害会(手掻会)に使用した陳和卿〜

 『吾妻鏡』によれば、東大寺大仏殿の落慶供養に参列した源頼朝は、大仏の鋳造を手掛けた陳和卿に会うことを望むが、和卿は 「多くの人々を殺した罪深い者であるので会いたくない」 と断ったという。

 それでも、頼朝は怒ることなく、奥州征伐で着用した甲冑・鞍つきの馬三頭・金銀等を褒美として贈っている。

 しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、甲冑と鞍だけをもらい、甲冑は東大寺造営の釘料として、鞍は「転害会」(手掻会)の祭典のために東大寺に納めてしまったという。



南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜









東大寺
東大寺
(世界文化遺産)

 東大寺は、聖武天皇が建立した寺。全国に設置された国分寺の総本山として信仰された。
 本尊は奈良の大仏として知られる「銅造盧舎那仏坐像」


奈良県奈良市雑司町406−1

JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分
近鉄奈良駅から徒歩約20分


東大寺は世界文化遺産
(古都奈良の文化財)


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