鎌倉手帳(寺社散策)

韮山城址 北條五代祭り



後北条氏の居城
相州小田原城


岡戸事務所
編集:岡戸事務所







小田原城
小田原城天守閣


 小田原城は、15世紀の中頃、大森氏が築いた山城を前身としているといわれ、1495年(明応4年)に北条早雲(伊勢盛時)が城を奪取し、以後、小田原北条氏(後北条氏)の居城となった。

 ※早雲は、小田原城奪取後も伊豆の韮山城を居城としていた。

 三代北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。

 関東支配の拠点として拡張された城は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下町を囲む長さ9qの総構となり、その規模は最大に達している。

 現在の小田原城天守閣は、江戸時代の雛形や引き図をもとに、1960年(昭和35年)、鉄筋コンクリート造で復興されたもの。
(複合式層塔型3重4階(1633年築)

 内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書などの資料を展示している。


高さ:約40m

延床面積:1822u

総瓦枚数:63440枚

総工費:8000万円


小田原城天主閣
天主閣からの景色





八幡山古郭
八幡山古郭
小田原城馬出門
馬出門

小田原城銅門
銅門
(あかがねもん)
小田原城常盤木門
常盤木門
(ときわぎもん)



小田原北条五代


早雲

氏綱

氏康


氏政

氏直







〜相模の支配権を手に入れた北条氏〜

 伊豆の韮山城を拠点として、1495年(明応4年)、小田原城を奪い取った北条早雲は相模へ進出し、1510年(永正7年)には住吉城を築いたが、三浦道寸(義同)によって落されてしまう。

 態勢を立て直した早雲は、1512年(永正9年)、岡崎城にいた道寸を攻め、さらに住吉城を攻めて道寸を三浦の新井城に敗走させた。

 これにより相模の支配権を手に入れ、新井城の道寸攻略のため、こちらも難攻不落といわれた玉縄城を築いている。

韮山城址
韮山城址
(伊豆の国市)
玉縄城址
玉縄城址
(鎌倉)


北条早雲と鎌倉(okadoのブログ)



〜北条氏の滅亡と小田原城〜

 1590年(天正18年)、小田原攻めを行った豊臣秀吉は、小田原城攻略のため、西の笠懸山に城を築いた。

 一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれている。

 この城の出現によって小田原城の将兵は戦意を喪失したという。
 
 その後、秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得により和議が成立。
 小田原城は無血開城した。

 城主氏直は、官兵衛に「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったという。

 これによって、小田原北条氏(後北条氏)は滅亡(五代氏直は高野山へ追放、四代氏政とその弟氏照は自刃)。

石垣山一夜城
石垣山城
北条政・氏照の墓
氏政・氏照の墓


〜北条氏の菩提所〜

早雲寺
早雲寺
北条五代の墓
北条五代の墓

 北条氏滅亡後の小田原城には、徳川家康の家臣大久保忠世が入り、城は改修され近代城郭の姿へと変わった(鎌倉の玉縄城も無血開城し、本多正信が入城している。)。

 1614年(慶長19年)、大久保忠隣が改易され、小田原城は破却されるが、1632年(寛永9年)に稲葉正勝が入城すると大改修が行われ、その姿は一新された。

 1686年(貞享3年)、大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城するが、1703年(元禄16年)の大地震により、城のほとんどの施設が倒壊焼失してしまう。

 以後、本丸御殿を除いた施設が再建され幕末を迎えている。

 1870年(明治3年)に小田原城は廃城となり、天守などが売却され解体された。


大久保一族の墓
大久保一族の墓
(大久寺)



〜農村改革の指導者・二宮尊徳〜

報徳二宮神社
報徳二宮神社
二宮尊徳
二宮尊徳



御感の藤
御感の藤
(小田原城址公園)
北條五代祭り
北條五代祭り
(小田原城址公園)







小田原城址公園
二の丸隅櫓


小田原城天守閣

小田原市城内6−1

小田原駅から徒歩10分



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