鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その1
畠山重忠邸跡碑


編集:岡戸事務所
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 畠山重忠邸跡の石碑は、鶴岡八幡宮の東の鳥居を出たところに建てられている。
 『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には、「畠山次郎重忠の南御門宅」とある。
 畠山重忠は、源頼朝に仕えた武将。
 頼朝の挙兵時には大庭景親に従ったが、間もなく頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を務めた。
 宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、馬を背負っておりたという伝説が残る。
 段葛の造営や佐助稲荷神社の建設に力を尽くしたが、頼朝死後、北条時政に騙され横浜市旭区で最期を遂げる(参考:畠山重忠の乱 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替)。



 畠山重忠は、武蔵大里郡(現埼玉県深谷市)の武将。

 頼朝挙兵時には、平家方の大庭景親につき、三浦大介義明と戦って義明を自刃に追い込んだが、頼朝が安房に渡り勢力を蓄えると、その軍に従った(参考:衣笠城址 小坪合戦と衣笠合戦)。

 源平合戦では多くの伝説を残し、頼朝の信頼を得て、段葛佐助稲荷神社の造営を任された。永福寺跡には、重忠が一人で運んだという快石が残されている(伝説!怪力「畠山重忠」)。

 源義経の愛妾静が頼朝の前で舞った際には、工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した(静の舞〜鎌倉と静御前)。
 
 重忠邸には、1199年(正治元年)5月、頼朝の二女三幡が病気にかかったときに、京都から呼び寄せられた名医丹波時長が滞在していたといわれている。
 時長は、当初、亀ヶ谷の中原親能の邸に滞在したが、三幡のいる御所まで遠いことから、畠山重忠邸を滞在場所とした(参考:岩船地蔵堂)。

 頼朝の死後の1205年(元久2年)、北条時政に騙され、領地から鎌倉に赴く途中、現在の横浜市旭区の二俣川で討ち死にした。時政軍が一万の兵であったことから「万騎が原」という地名が残っている。


源頼朝大軍を率いて鎌倉入り(okadoのブログ)
北条時政という武将(okadoのブログ)


◎さかさ矢竹(横浜市旭区)
 横浜市旭区の畠山重忠公碑の横に植えられている。
 重忠は、死ぬ前に「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」といって、2本の矢を地面に突き刺した。その矢が根付き、毎年2本ずつ増えていったといわれている。
 現在では、この矢竹を見ることはできなくなったが、平成17年に重忠没後800年を記念して植えられた。 

◎重忠公首塚(横浜市旭区)
 重忠は弓の名手といわれた愛甲三郎季隆の矢に当たって最期を遂げたといわれている。
 この首塚は、季隆に斬られた首を祀った場所といわれている。








畠山重保の墓
 鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の傍らにある宝篋院塔は、重忠の子重保の墓とされている。
 1205年(元久2年)早朝、三浦義村の手によって討ち取られた(参考:若宮大路の歴史散策)。
 詳しくは写真をクリック




畠山重忠公碑
 昭和30年、重忠没後750年を記念して、鶴ヶ峰と埼玉県川本町(現深谷市)の有志によって建てられた碑。






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