畠山重忠は、武蔵大里郡(現埼玉県深谷市)の武将。
頼朝挙兵時には、平家方の大庭景親につき、三浦大介義明と戦って義明を自刃に追い込んだが、頼朝が安房に渡り勢力を蓄えると、その軍に従った(参考:衣笠城址 小坪合戦と衣笠合戦)。
源平合戦では多くの伝説を残し、頼朝の信頼を得て、段葛や佐助稲荷神社の造営を任された。永福寺跡には、重忠が一人で運んだという快石が残されている(伝説!怪力「畠山重忠」)。
源義経の愛妾静が頼朝の前で舞った際には、工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した(静の舞〜鎌倉と静御前)。
重忠邸には、1199年(正治元年)5月、頼朝の二女三幡が病気にかかったときに、京都から呼び寄せられた名医丹波時長が滞在していたといわれている。
時長は、当初、亀ヶ谷の中原親能の邸に滞在したが、三幡のいる御所まで遠いことから、畠山重忠邸を滞在場所とした(参考:岩船地蔵堂)。
頼朝の死後の1205年(元久2年)、北条時政に騙され、領地から鎌倉に赴く途中、現在の横浜市旭区の二俣川で討ち死にした。時政軍が一万の兵であったことから「万騎が原」という地名が残っている。 |