鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その1
大倉(大蔵)幕府跡


編集:岡戸事務所
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大倉(大蔵)幕府跡碑
 1180年(治承4年)10月、鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。
 頼朝はこの御所で政治を行ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。
 当初は、父義朝の邸があったという亀ヶ谷の旧跡(現在の壽福寺辺り)に御所を建てる予定でいたが、岡崎義実によって義朝の菩提を弔うための堂宇が建てられていたことや、土地が狭かったため大倉の地を選んだといわれている。
 また、先祖源頼義がこの地に住んでいたことも選定理由の一つのようである。

 当座の住まいとして山ノ内の首藤兼道の邸が移され、12月には新造の御所が完成した。
 移築された首藤邸は、安倍晴明の占いによって建てられて以来、一度も火災に遭ったことがないということで選ばれたのだという。
 この年、御所には「侍所」が設置され、和田義盛が別当に就任。1184年(元暦元年)には、「公文所」と「問注所」を設置し、公文所別当には大江広元が、問注所執事には三善康信がそれぞれ就任している。1191年(建久2年)、公文所は「政所」に改められた。
 のちに宇津宮辻子に移るまでの45年間、武家政治の中心となる。

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畠山重忠邸跡
 頼朝は、大倉幕府(大倉御所)を守らせるため、西側に畠山重忠三浦義村を、東には和田胤長(和田義盛の甥)の屋敷を造らせた。
 鶴岡八幡宮東の鳥居前には、畠山重忠邸跡碑が建てられている。
 (参考:荏柄天神社:和田胤長の邸


鶴岡八幡宮
 1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火では、大倉御所が焼かれ、鶴岡若宮も焼失した(参考:御鎮座記念祭)。
 頼朝は、7月に新造御所に移り、11月には京都石清水八幡宮の祭神を改めて勧請し、鶴岡八幡宮の本宮を創建した。


法華堂跡(源頼朝墓)
 頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、「相模川橋」の視察の帰りに落馬し、それが原因で53歳で死去したとされる(1199年(正治元年)1月13日 参考:源頼朝落馬の地)。
 頼朝の亡骸は、大倉幕府北側の持仏堂(法華堂)に葬られた
 その後、頼家実朝が御所の主となるが、政治の実権は、北条氏が握ることとなる。


問注所跡
 問注所は、鎌倉幕府の裁判機関で、当初は大倉幕府内にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代将軍頼家のときに今小路に移転された(参考:問注所跡)。
 問注所は、1184年(元暦元年)に設置され、三善康信(善信)が執事(長官)に就任した。以後、三善氏が問注所執事を世襲することになる。


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 1213年(建保元年)5月2日、北条義時に挑発された和田義盛が乱を起こし(和田合戦)、御所に火を放ち焼いた。このとき、将軍源実朝は頼朝の法華堂に避難したと伝えられる(参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。

 1219年(承久元年)12月24日、北条政子邸(旧実朝邸)が焼失し、政子は仮御所へ移った。以後、御所が新造されることはなかったという(参考:北条政子邸焼失(okadoのブログ))。

 1225年(嘉禄元年)7月11日、北条政子が亡くなると、三代執権北条泰時は、将軍御所の移転を行った。
 12月20日、藤原(九条)頼経が宇津宮辻子の新邸に移ったことにより、頼朝頼家実朝の源氏3代と北条政子が政務を執った大倉幕府から宇津宮辻子幕府へと政治の中心が移ったことになる。
 さらに、1236年(嘉禎2年)8月4日、将軍藤原(九条)頼経は、宇津宮辻子御所から若宮大路の御所へと移った(若宮大路幕府)。


宇津宮辻子幕府跡

若宮大路幕府碑


 現在の清泉小学校の周辺が大倉幕府(大倉御所)の跡で、頼朝墓の下一帯がいわゆる「鎌倉幕府」であった。
 幕府には、四方に門があって、それぞれ、東御門西御門、北御門、南御門と呼ばれていた。
 現在でも東御門西御門の地名が残されている。


東御門の石碑

西御門の石碑

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