鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その2
鎌倉公方屋敷跡


編集:岡戸事務所
カスタム検索


〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







 金沢街道の浄明寺地区には、足利義兼が邸を構えて以来、足利氏の嫡流の居館があった。室町時代の足利基氏をはじめとする代々鎌倉公方もこの地を屋敷とした。
 義兼は、源義家を祖とする源氏で、源頼朝にも早い段階で従っている。鎌倉幕府においても頼朝の重臣として高い地位にあった。

 鎌倉公方とは、室町時代に設置された鎌倉府の長官のことで、初代には、足利尊氏の子基氏がなった。以後、基氏の子孫が世襲した。
 鎌倉公方の下には、その補佐役として関東管領が置かれ、こちらは上杉氏が世襲した。
 当初、鎌倉公方は、関東八カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国を統治するために置かれたが、次第に大きくなり、東北一円をもその支配下に置くことになる。

鎌倉公方 →→→ 初代:足利基氏 以後世襲

関東管領 →→→ 初代:上杉憲顕 以後世襲



上杉禅秀の乱
 関東管領の地位は、上杉氏による世襲だが、上杉氏は、宅間、山内、犬懸、扇谷に分かれ、それぞれが関東管領の職を争っていた。
 四代鎌倉公方の足利持氏は、山内家から上杉憲基を関東管領としたため、前関東管領だった犬懸家の上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こす(上杉禅秀の乱:1416年)。一時、鎌倉は禅秀に征圧されるが、持氏は駿河の今川氏の援助を受け、禅秀を自刃に追い込んだ。これによって犬懸上杉家が滅亡する。

田楽辻子にある
上杉禅秀邸跡碑


永享の乱
 4代鎌倉公方の持氏は、室町幕府内の混乱もあって、徐々に幕府とは別の勢力としての権限強化を図るようになる。
 鎌倉には、鎌倉府の長として鎌倉公方、その補佐役として関東管領が設置されていたが、関東管領は将軍(室町幕府)よりであったと考えられ、鎌倉公方と将軍家との間にも、上杉禅秀の遺児を将軍家が匿っていたことなどから、鎌倉公方VS将軍・上杉の図式が成立していたと思われる。
 そして、持氏と関東管領だった上杉憲実との間に対立が生じ、京都扶持衆(幕府から扶持をもらっている関東・東北の武士団)との対立もあり、6代将軍足利義教が持氏征伐を決定する(永享の乱:1438年)。
 持氏は敗れ、永安寺で自刃。嫡子義久も報国寺で自刃したことから、実質上、鎌倉公方は持氏で終わった。



別願寺の持氏の供養塔
 持氏の怒りを静めるために四方に鳥居の浮彫りがある。




古河公方と堀越公方
 長い間、鎌倉公方が不在のままの政治が行われたが、持氏の子成氏が鎌倉公方として就任する。しかし、成氏は、父持氏が対立した上杉憲実の子で関東管領であった憲忠を暗殺してしまう。これによって、享徳の乱が起こった。
 幕府は、成氏討伐を決定し、今川範忠を上杉の援軍として送り、結果、成氏は古河に敗走する。以後、古河公方と呼ばれ、成氏の子孫が世襲した。
 その後、8代将軍足利義政が、古河にいる成氏の対抗として、異母兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越にとどまった(堀越公方)。
 その結果、関東は古河の鎌倉公方(古河公方)と伊豆の鎌倉公方(堀越公方)が並び立ち、特に古河公方には関東の諸将が味方し、利根川を挟んで上杉とにらみ合う時代が続いた。
 これらの関東での反乱は、のちの応仁の乱へとつながり、さらに戦国時代へと突入していく。

堀越公方屋敷跡
この辺りには北条時政邸があったところ。
参考:成福寺(伊豆韮山)



〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜
代々の鎌倉公方と鎌倉の関連寺社
初代:基氏 瑞泉寺 長壽寺
2代:氏満 明月院 海蔵寺 永安寺
3代:満兼 永安寺(廃寺)
4代:持氏 別願寺 永安寺 本覚寺




六浦道(路)その1





鎌倉寺社巡り その2トップ

鎌倉手帳トップ
鎌倉検定のページ
(3級・2級・1級の問題と解説)
カスタム検索