鎌倉手帳(寺社散策)
鎌倉寺社巡り その2
文覚上人屋敷跡


文覚上人屋敷跡碑 |
田楽辻子の入口、滑川に架かる「大御堂橋」の傍らに、「文覚上人屋敷跡碑」が建てられている。
源頼朝の建てた勝長寿院は、文覚の屋敷から谷戸奥に入ったところにある。
文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた。西行や源渡も同じころ仕えていたという。 |
〜源渡の妻に恋した文覚〜
文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をしてしまう。
袈裟御前の「夫を亡きものとしてくれたら・・・」という言葉に、渡を殺すため夜中屋敷に忍び込むが、誤って袈裟御前を殺してしまったという。
袈裟御前は、わざと夫のいるはずの寝所にいて文覚に殺される決断をしたのだという。
文覚と夫との板挟みの中、他に方法が見つからなかったのかもしれない。 その後、文覚は真言宗の僧となる。 |
〜伊豆配流〜
僧となった文覚は、後白河法皇に対し、神護寺再興の訴えを起こしたことで、法皇の怒りをかい伊豆に流された。
そのときに、同じく伊豆に流されていた源頼朝と出会い、挙兵を促したともいわれている。 |

文覚荒行像(成就院) |
文覚は、1180年(寿永元年)、頼朝の命を受けて、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、江ノ島に弁財天を勧請した。
その後、頼朝の力を借りて神護寺再興を果たした。平清盛の嫡流六代御前の助命嘆願でも知られている(参考:六代御前の墓)。
頼朝亡き後、後鳥羽上皇への謀叛の疑いで対馬に流される途中で死んだという。
補陀洛寺、成就院、浄光明寺などで鎌倉での文覚を見ることができる。 |
江ノ島と源頼朝と弁財天(okadoのブログ) 六代御前の墓〜盛者必衰の歴史〜(okadoのブログ)

| 鎌倉の中心を流れる滑川は、六つの名を持つことで知られている。文覚の屋敷前を流れる滑川は、「坐禅川」と呼ばれていた。 |

田楽辻子のみち |
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