鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その2
大江広元邸跡


編集:岡戸事務所
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大江広元邸碑
 大江広元は、大江惟光の子で、中原広季の養子となった。大江の姓を名乗ったのは1216年(建保4年)、陸奥守となった以降といわれている。「大江」は朝臣であるので氏ではなく姓となる。したがって「おおえのひろもと」と読む。
 源義家は、広元の祖父大江匡房(まさふさ)から兵法を学んだといわれている。

 1184年(元暦元年)、源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、開設された公文所の別当となる(公文所は、1191年(建久2年)、政所に改められる。)。
 1185年(文治元年)、源頼朝による守護・地頭の設置は広元の献策によるものとされている(文治の勅許)。
 頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担い、鎌倉幕府の基礎を築き上げた。

源頼朝と御家人・・・所領安堵の下文(okadoのブログ)



 広元が拝領した愛甲郡毛利庄(厚木市周辺)を相続した四男季光は、「毛利氏」を名乗るようになる。宝治合戦で三浦氏に味方したことから、毛利氏はほとんど滅んでしまうが、四男経光の家系が後世にのこり、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就の祖となる。
 江戸時代末には、毛利氏の長州藩は明治維新の成功に大きな働きをした。
 西御門にある広元と季光の墓は、江戸時代に長州藩によって建てられたものという。
 なお、明王院裏山に、大江広元の墓と伝わる五層塔がある。十二所には、源実朝の墓もあったという説もあるが定かではない。



六浦道(路)その1

大江広元の墓
守護・地頭の設置
北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜




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