鎌倉手帳(寺社散策)

勝長寿院跡

岡戸秀仁
編集:岡戸秀仁







勝長寿院跡
勝長寿院跡碑


 勝長寿院は、1185年(文治元年)、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立。

 当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。

 1185年(文治元年)、後白河法皇から送られた源義朝と、義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬り、追善の法会が行われた。

 『吾妻鏡』によると、頼朝は2人の首を持った使者を片瀬まで迎え出て受け取ったのだという(参考:本蓮寺(藤沢片瀬))。

 源義朝は、1159年(平治元年)に起こった平治の乱に敗れ、東国に逃れる途中、尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い、郎党の鎌田政長とともに殺された。


「義朝の首を受け取った場所」として稲瀬川にもその伝説が残されている。

北条時行の中先代の乱の折、諏訪頼重ら43人が自刃した場所でもある。



〜義朝の埋葬〜

 頼朝は、義朝の骨を埋葬するに当たって、多くの御家人を遠ざけ、源氏一門である平賀(源)義信、その子大内(源)惟義、毛利(源)頼隆を従えて葬ったと伝えられている。

 平賀義信は、新羅三郎義光の孫で平治の乱義朝に供した。

 毛利頼隆は、源義家の孫で平治の乱で父が義朝の身代わりとなって討死している。

 いずれも、義朝にゆかりのある源氏の武将。


源義朝と鎌田政長の五輪塔
源義朝墓(左)と鎌田政長墓(右)


〜供に葬られた鎌田政長〜

 鎌田政長は、義朝の郎党で、保元の乱の折、義朝の父為義を斬る務めを果たし、平治の乱では義朝を東国に逃そうとした武将。

 義朝とともに尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い殺された。
 
 愛知県知多郡美浜町の野間大坊にある義朝の墓の横には政長夫妻の墓がたてられている。

 政長の母は、義朝の乳母を務めたため、義朝と政長は乳兄弟と呼ばれていた。

 義朝を殺害した長田忠致は、頼朝挙兵すると頼朝に従ったといわれ、平家滅亡後に、頼朝の命によって斬首されたという。


源義朝墓(野間大坊)
源義朝の墓
(愛知県)
長田父子磔の松(野間)
長田父子磔の松
(愛知県)



〜幻の寺院〜

 勝長寿院は、源頼朝鶴岡八幡宮の次に造営した寺院。

 『吾妻鏡』には「霊崛」(れいくつ)と記されている。

 本堂(阿弥陀堂)には、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれた。

 のちに、五仏堂には運慶の五大尊像が安置されている。

 1258年(正嘉2年)の再建時には、本堂・弥勒堂・五仏堂・三重塔・惣門が建てられたといわれているが、その後、度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となったと考えられている。







〜大姫と静の舞〜

 1186年(文治2年)、源義経の愛妾静御前は、鶴岡八幡宮若宮の回廊で舞った後、頼朝の娘大姫に頼まれ、勝長寿院でも舞を披露している。

 大姫は、婿の木曽義高が殺されて以来、体調が優れず、勝長寿院に参籠して病気回復祈願を行っていた(参考:岩船地蔵堂)。

 1197年(建久8年)没。
 勝長寿院に葬られたと考えられる。


静の舞
静の舞



〜万灯会(まんどうえ)〜

 1190年(建久元年)の盂蘭盆には、平氏亡霊のための万灯会が催された。

盂蘭盆の万灯会(okadoのブログ)



〜奈良興福寺の聖弘と勝長寿院〜

 1187年(文治3年)3月8日、源頼朝は、義経を匿い祈祷を行ったとして奈良興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出して尋問した。

 それに対し聖弘は、「義経が師檀のよしみで頼ってきたので一時匿ったが、義経を諫めて送り出した。祈祷は義経の逆心を宥めるもので、罪に問われるものではない」と答え、さらに「関東が安全でいられるのは義経の武功によるものであるにも拘わらず、讒言を受けて恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然。義経を呼び戻して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治めることだ」と説いた。

 聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたのだという。


義経を匿った興福寺の聖弘(okadoのブログ)



〜後白河法皇の四十九日法要〜

 1192年(建久3年)5月8日、源頼朝は後白河法皇の四十九日法要を勝長寿院で行っている。

 参列した僧は、鶴岡八幡宮20人、勝長寿院13人、伊豆山権現18人 箱根権現18人、大山寺3人、金目観音3人、高麗寺3人、六所神社3人、岩殿寺2人、杉本寺1人、窟不動1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、飯泉観音2人、国分寺3人。



〜運慶の五大尊像〜

 1219年(承久元年)、源実朝の追福のために、母北条政子が建てた五仏堂に、運慶によって彫られた五大尊像(五大明王)が安置された。

 運慶は、この前年に、源実朝の持仏堂の本尊釈迦如来像と大倉薬師堂の本尊薬師如来も彫ったといわれている。


運慶
運慶



〜三代将軍実朝の埋葬〜

 1219年(建保7年)、三代将軍源実朝は、甥の公暁によって暗殺され、勝長寿院に葬られた。

 しかし、首は公暁が持ち去ってしまいなかったことから、首の代わりに髪の毛を棺に納めたと伝えられている。


源実朝墓(秦野市)
源実朝公御首塚
源実朝の五輪塔(壽福寺)
壽福寺の五輪塔


源実朝の暗殺(源氏の滅亡)


古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり

源実朝が勝長寿院を訪れた際に梅の花が咲いているのを見て詠んだ歌。



〜北条政子の埋葬〜

 源頼朝の妻北条政子は、晩年、勝長寿院の奥に屋敷を建てて住んでいたといわれ、1225年(嘉禄元年)に亡くなり、そこで火葬されたという。

 政子が建てた壽福寺安養院にもその墓と伝わるものがあるが、勝長寿院に葬られたと考えられる。


北条政子の供養塔(安養院)
安養院の宝篋印塔
北条政子の五輪塔(壽福寺)
壽福寺の五輪塔




源義朝の遺骨が葬られた勝長寿院

平治の乱〜源氏勢力の壊滅〜









勝長寿院跡

鎌倉市雪ノ下4丁目

鎌倉駅徒歩25分


田楽辻子のみち
田楽辻子のみち

 「田楽辻子のみち」は、滑川に架かる大御堂橋の文覚上人屋敷跡から報国寺へ至る道。



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