鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その2
瑞 泉 寺


編集:岡戸事務所
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=花と庭園の寺《瑞泉寺》=
(臨済宗円覚寺派)


本堂(大雄宝殿)
 瑞泉寺は、夢窓疎石(国師)の開山。1327年(嘉暦2年)、幕府の御家人二階堂道蘊(引付頭)が国師のために建立した瑞泉院がはじまりといわれ、鎌倉公方となった足利基氏が中興して瑞泉寺とした。
 国師作の禅の思想に基づいた庭園は、書院庭園の起源ともいわれ、国の名勝に指定されている。
 足利基氏以降、代々鎌倉公方の菩提寺として栄え、関東十刹第一位の格式を誇り、塔頭も十二院を数えたという。
 江戸時代には、徳川光圀が千手観世音を寄進している。開山堂の夢窓国師坐像(頂相彫刻)は国の重要文化財。

鎌倉観音巡礼第6番札所(千手観世音)
鎌倉地蔵巡礼第7番(どこも苦地蔵)
開山 夢窓疎石(国師)
本尊 釈迦牟尼仏

鎌倉の頂相彫刻(okadoのブログ)  



◎夢窓疎石
 伊勢の出身。南北朝時代に活躍し、足利尊氏の信頼を得た高僧。
 建長寺の一山一寧に参禅し、浄智寺の高峰顕日の法を継いだ。
 甲斐や美濃などを転々として過ごしていたが、後醍醐天皇に招かれ南禅寺に滞在した後、北条高時の要請によって鎌倉に下って瑞泉院を建てた。
 鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は、疎石に帰依し、寺を中興して瑞泉寺とした。その後、足利氏四代(基氏氏満満兼持氏)の菩提所として栄える。
 疎石は後醍醐天皇から国師号を賜り、一般的に夢窓国師と呼ばれている。歴代天皇からも国師号を賜り、計7回も授かっている(そのため、「七朝帝師」とも呼ばれる。)。
 足利直義(尊氏の弟)との対談集である『夢中問答集』が残されている。

足利尊氏・直義兄弟と鎌倉(okadoのブログ)



名勝「瑞泉寺庭園」
名勝「瑞泉寺庭園」
 本堂背後の庭園は、夢窓疎石の禅思想に基づいて造られたもので、昭和45年に発掘復元された。自然の地形を活かし、水月観の道場としての「天女洞」と「坐禅洞」の2つ洞窟が掘られ、その前面には池が配され、橋が架けられている。
 昭和46年、瑞泉寺の庭園は、国の名勝に指定された。
 疎石は、京都の天龍寺や西芳寺、甲斐の恵林寺の庭園も手掛けている。

詳しくは写真をクリック

偏界一覧亭
 夢窓疎石の庭園から十八曲がりと呼ばれる坂を上ると、1328年(嘉暦3年)に夢窓疎石が建立した偏界一覧亭があった。富士を正面に望む景勝の地だったという。「前もまた重なる山の庵にて 梢(こずえ)に続く庭の白雲」は、疎石がこの亭で詠んだものと伝えられている。
 偏界一覧亭では、鎌倉五山の僧が集まり詞会を開いたといい、五山文学の中心であった。
 その後、荒れ果てた「偏界一覧亭」をみた徳川光圀(水戸光圀)が堂を建て、そのそばに東屋を造り、「一覧亭集詩板」を掲げたというが今はない。光圀は、ここで『新編鎌倉志』を編纂させたといわれている。
 現在、偏界一覧亭跡地は立ち入り禁止だが、天園ハイキングコースから、昭和10年に建てられたという小堂を見ることができる。

天園ハイキングコースからみた偏界一覧亭跡の小堂


鎌倉アルプスの散策・・・前編 後編
明王院から瑞泉寺への古道




参道(石段) 男坂
  参道の石段は、途中から2つに分かれる。左が旧道で「男坂」と呼ばれ、右のやや緩やかな石段は新道で「女坂」と呼ばれている。

◎仏像
 本堂には、本尊釈迦如来像、徳川光圀寄進の千手観音坐像(市重文)が安置されている。
 隣の開山堂には、頂相彫刻の秀作夢窓国師坐像(国重文)が安置されている(公開はされていない。)。 


☆伝説!どこも苦地蔵☆
 お地蔵さまにお供えをしていた貧しい僧が、ある日、苦しさのあまりどこかへ移り住んでしまった。すると、夢の中に地蔵が現れ、「どこも同じじゃ〜、どこも苦しいのは同じじゃ〜」といったそうな。もとは扇ヶ谷(智岸寺)にいたお地蔵さんらしい(参考:「智岸寺」と「どこも苦地蔵」(英勝寺))。
 ★詳しくは写真をクリック

どこも苦地蔵堂

どこも苦地蔵と阿仏尼の墓(okadoのブログ)  神仏分離と鶴岡八幡宮(okadoのブログ)



本堂横の開山堂

鐘楼(錦屏晩鐘)

除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜



鐘楼前の利生塔
◎利生塔
 足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで、全国に安国寺を建て利生塔を置いた。
 安国寺と利生塔は、国ごとに一寺一塔が設置され、相模国では、鎌倉山ノ内に設置されている(長壽寺前辺りが安国寺跡とされている。)。



☆鎌倉公方VS室町幕府=永享の乱☆
 瑞泉寺総門近くにあった永安寺は、三代鎌倉公方足利満兼が、前公方氏満の供養のために建立した。
 四代鎌倉公方足利持氏は、将軍足利義教と対立し敗れ(永享の乱)、永安寺で自刃した。
 その時に永安寺も焼かれてしまったという。持氏の嫡子義久は、報国寺で父のあとを追って自刃した。
 別願寺には、持氏の怒りを鎮めるために建てられたという供養塔がある。
 (参考:永安寺跡



◎オウバイ
 黄色い花を咲かせるこの木は、市の天然記念物。
参考:鎌倉の梅 瑞泉寺の黄梅
 詳しくは写真をクリック

黄梅〜瑞泉寺の天然記念物〜(okadoのブログ)
◎冬桜
 彼岸の頃から4月頃まで白い花が咲く。この木は、徳川光圀お手植といわれる古木。

 瑞泉寺は、花と寺として人気があり、瑞泉寺のある谷は「紅葉ヶ谷」と呼ばれ紅葉の名所にもなっている。

鎌倉の紅葉・黄葉
瑞泉寺のスイセン

瑞泉寺の梅
鎌倉:梅の名所  鎌倉の梅2010



鎌倉「冬紅葉」
スイセン・冬さくら・マンリョウ
鎌倉〜梅情報〜
黄梅〜瑞泉寺の天然記念物〜 
瑞泉寺の梅  瑞泉寺の梅U
瑞泉寺のフヨウ
瑞泉寺のシュウメイギク
天然記念物の黄梅・・・鎌倉:瑞泉寺の2012/03/16
鎌倉:瑞泉寺の梅2012/03/16

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マンリョウ
黄葉 スイセン キキョウ

 瑞泉寺のスイセンは、鎌倉一早く咲くといわれている。





◎松蔭吉田先生留跡碑
 山門の前に建つ石碑。
 吉田松陰は、下田で密航を企てる直前に、瑞泉寺の住職であった伯父竹院和尚に会いにきたといわれる。企ては失敗し、松蔭は獄中でこの寺を訪れた詩を詠じたいう。
 「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた。」
 碑は昭和4年に建立され、徳富蘇峰の筆によるもの。

参道

◎山崎方代歌碑
 手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る
◎大宅壮一評論碑
 男の顔は履歴書である

◎吉野秀雄歌碑
 死をいとひ生をもおそれぬ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ
◎久保田万太郎句碑
 いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ



☆伝説!むじな塚☆
 瑞泉寺に留守番のおじいさんとおばあさんが住んでいた。瑞泉寺の下にも寺があって、そこにもおじいさんが住んでいた。そのおじいさんは、しばしば瑞泉寺にやってきてご馳走になっていた。ある日、下の寺のおじいさんが瑞泉寺のおじいさんのところにやってきたので、家の中に入れて火にあたらせてあげると、下の寺のおじいさんは、つい居眠りをして化けの皮を脱いでしまい、「むじな」になってしまった。
 瑞泉寺のおじいさんは、おどろいてむじなを殺してしまった。おじいさんに化けてご馳走になっていた悪いむじなであるが、可哀想であるので寺の前にお墓をつくってあげたそうだ。



天園ハイキングコース(鎌倉アルプスを散策)
 瑞泉寺からは、天園ハイキングコースを経て建長寺へ通ずる道があります。

明月院 ハ イ キ ン グ コ ー ス
建長寺 半僧坊 勝上けん展望台 十王岩 鷲峰山 天園 貝吹地蔵 瑞泉寺
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朱垂木やぐら 百八やぐら
覚園寺
獅子舞
永福寺跡
お塔の窪やぐら
十二所神社
大江広元墓
初め弁天
明王院

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☆伝説!貝吹地蔵☆
 瑞泉寺裏山(天園ハイキングコース)にある「貝吹地蔵」は、ほら貝を吹いて、新田勢が攻め寄せてきたことを知らせたという。貝吹地蔵の手前には「従是右北条御一門御廟所」の石標があって、入って行くと北条首やぐらがある。
 
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二階堂大路の散策
鎌倉アルプスの散策・・・前編 後編
明王院から瑞泉寺への古道


鎌倉の臨済宗の寺  禅〜自身で開く悟り:鎌倉新仏教〜






瑞泉寺:鎌倉市二階堂710  0467(22)1191

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