鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その4
大 寶 寺


編集:岡戸事務所
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=佐竹氏館跡《大寶寺》=
(日蓮宗)

 新羅三郎義光が館を構え、以後義光を祖とする常陸の佐竹氏の居館となった場所。
 境内の多福稲荷は、義光が建てたものとされる。「大町まつり」の神輿は、この寺の義光の墓に向かい、祝詞を奏してから町内を巡行する。

開山 日出
開基 佐竹義盛
本尊 三宝祖師


新羅三郎義光墓

多福稲荷


◎佐竹屋敷跡
 大寶寺のある場所は、新羅三郎義光を祖とする「佐竹氏」の屋敷があったところとされている。
 新羅三郎義光は父が源頼義、兄は源義家。義光の孫昌義が常陸国佐竹郷に土着したことによって「佐竹姓」を名乗った。
 佐竹隆義と秀義父子は源頼朝に反抗し、「佐竹征伐」によって領国を追われることになるが、逃亡していた秀義は、奥州征伐の際に頼朝に従軍することを許された。
 秀義が鎌倉に建てた屋敷がこの場所で、秀義はここで没している。
 佐竹氏は、室町時代には鎌倉公方を主君とし活躍し、戦国時代を経て豊臣政権下では「天下の六大名」と称された。
 佐竹義盛が屋敷を寺とし、新羅三郎義光が守護神としていた多福明神にちなんで「多福寺」としたのが大寶寺のはじまりとなる。のちに多福寺は廃寺となり、1444年(文安元年)、日出によって日蓮宗の寺に改められ「大寶寺」となった。日出は本覚寺の開山でもある。


佐竹屋敷跡碑



新羅三郎義光と佐竹氏
佐竹征伐
奥州平泉の発展と藤原清衡
北方の王者藤原秀衡の死
奥州征伐・・・奥州藤原氏の滅亡



☆伝説!鬼子母神☆
 その昔、鬼が千匹の子をもっていた。その子たちには、毎日、人間の肉を食べさせていたという。ある日、その中の一匹がいなくなってしまった。どう探してもみつからない。実はお釈迦さまが隠したのである。お釈迦さまは、母鬼に「食べられた人間の家族は、みな嘆き悲しむ。これからは、ざくろの実が人間の肉の味に似ているから、それを食べさせるように。」と言ったそうだ。
 それからは、鬼は子どもたちの守り神となり、人々は、ざくろの実をお供えするようになった。
 大寶寺では、5月9日に「子育て鬼子母神祭」が行われている。



〜佐竹与義と足利持氏の対立〜
 佐竹氏第11代当主の佐竹義盛は、子に恵まれなかったことから、関東管領上杉憲定の次男義人(義憲)を養子とし、義盛の死後、義人が佐竹宗家を継いだ。
 これに対し、他家の者が佐竹の当主となったことに不満を持つ佐竹一門の佐竹(山入)与義は、1416年(応永23年)に起こった上杉禅秀の乱で、禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏に反旗を翻すとともに、持氏に従っていた義人を攻撃した。
 与義は禅秀の乱後も持氏に対して執拗な抵抗を続けていたが、1422年(応永29年)、持氏が佐竹屋敷にいた与義を上杉憲直に攻撃させたことによって、裏山を越え比企ヶ谷に逃げ込み法華堂(新釈迦堂)で自刃した(参考:蛇苦止堂と蛇苦止ノ井)。妙本寺新釈迦堂跡には「佐竹やぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。
 ※佐竹与義(上総介入道常元)。



近くに→→→釈迦堂切通と黄金やぐら
 大寶寺から大町の奥へと入っていくと、釈迦堂切通へと通ずる。釈迦堂切通は大町と釈迦堂ヶ谷を結ぶ切通。北条時政の屋敷もこの辺りにあったといわれている。
 釈迦堂切通へと通ずる道は、途中で別れ、反対側の川沿いの道を進んでいくと「黄金やぐら」がある。やぐら内部の水中に光ごけが発生し、のぞくと黄金色に輝いていたことからこの名がついた。


黄金やぐら


大町大路の散策  大寶寺から逆川沿いを散策


鎌倉の日蓮宗の寺





大寶寺:鎌倉市大町3−6−22  0467(22)2973

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