鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その4
妙 法 寺


編集:岡戸事務所
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〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







=苔の寺《妙法寺》=
(日蓮宗)

 妙法寺のある松葉ヶ谷は、日蓮が鎌倉に入って草庵を結んだ地であり、「松葉ヶ谷法難」の舞台となった。
 中興開山の日叡は、護良親王の子で、日蓮の遺跡を守るためと、親王の菩提を弔うためにこの寺を再興したとされる。裏山山頂には親王の墓がある(参考:鎌倉宮 護良親王の墓)。
 江戸時代には興隆し、我が国最初となる「川施餓鬼」を隅田川の永代橋付近で行ったという。将軍徳川家斉もしばしば訪れたため、総門、仁王門、法華堂を朱塗にしたといわれている。
参考:鎌倉と日蓮

開山 日蓮(中興開山:日叡)
本尊 一塔両尊四師


細川家寄進の本堂
 日蓮の結んだ庵は「法華堂」と称され、その後、本国寺として創建された。その本国寺は、鎌倉幕府滅亡後、第四祖日静の代に足利尊氏のすすめによって京都に移された。その跡地に日叡が妙法寺を建てたという。
 (参考:安国論寺長勝寺も日蓮が草庵を結んだ地と伝えられている。)

 現在の本堂は、肥後細川家が江戸時代に建立したもの。格天井や板戸の画は当時のままだといわれる。

◎大覚堂
 熊本城天守閣に祀られていた加藤清正の尊像が安置されている。清正は日蓮信者であった。
 毎年5月5日には「清正公祭」が行われる。




仁王門
◎薩摩屋敷焼討事件戦没者の墓
 明治維新前に起こった薩摩屋敷の焼討で戦死した人々の遺骨を納めている。もとは薩摩屋敷にあった妙法寺の支院「清正公堂」にあったが、平成7年、妙法寺の仁王門の傍らに移された。

◎扇塚
 仁王門の傍らに建てられた塚。「扇塚」の字は、作家里見クの筆によるもの。
 4月には、使い古された舞扇を持ち寄って供養し、歌舞の上達を祈念する扇供養が行われている。



〜裏山散策〜

◎苔の石段
 本堂裏の仁王門をくぐると「苔の石段」がある。妙法寺は、「苔の寺」として知られている。
 上から見下ろす苔の石段も見事。


シャガと石段
鎌倉のシャガ

妙法寺の苔の石段とシャガ(okadoのブログ)

◎法華堂
 苔の石段を上がった所は、もとは釈迦堂があった場所といわれているが、現在は、水戸徳川家から寄進されたという法華堂が建てられている。
 法華堂には、開山日叡作と伝わる「厄除祖師像」が安置されている。開扉されるのは、8月27日と9月12日。
 法華堂の前には、日叡お手植えといわれるソテツがある。


日叡お手植えソテツ

鐘楼

御小庵跡碑

 鐘楼脇の階段を上がると小庵跡碑があり、さらに険しい石段を上がりきると護良親王の供養塔がある。ここからは、由比ヶ浜の海を一望することができる。

苔寺妙法寺のシャガ(okadoのブログ)



〜護良親王〜


護良親王の供養塔

護良親王墓からの眺め

(参考:鎌倉の海 鎌倉:海の見える寺

南の方墓 日叡墓
 開山日叡は、鎌倉幕府滅亡後、悲運の最期を遂げた大塔宮護良親王の子で、母は、護良親王とともに鎌倉に来た藤原保藤の娘南の方(鎌倉宮の南方社は南の方を祀っている。)。
 護良親王は、足利尊氏と対立して、鎌倉の東光寺(現鎌倉宮)に幽閉され、中先代の乱が起こったときに尊氏の弟直義によって殺された(参考:鎌倉宮 護良親王の墓)。

◎大塔宮祭
 1335年(建武2年)7月23日、護良親王(大塔宮)は、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。親王の子を懐妊していた南の方は、のちに男児を出産する。その子が妙法寺の中興開山の日叡。
 二階堂の護良親王の墓は、明治になって鎌倉宮が建立されるまで、妙法寺の管理に置かれていたともいわれている。
 妙法寺では、親王の命日である7月23日に「大塔宮祭」が行われている。

護良親王(大塔宮)の失脚(okadoのブログ)
足利尊氏・直義兄弟と鎌倉(okadoのブログ)



◎那須与一邸跡
 妙法寺のある辺りには、「屋島の戦い」で、平家が掲げた扇の的を射落とした那須与一の邸があったと伝えられている。
 弓の稽古をする「的場」があったので、この辺りは「的場ヶ谷」と呼ばれていたが、それが訛って「松葉ヶ谷」と呼ばれるようになったとも伝えられている。

◎鷲の宮
 由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、 その後、娘の残骨が各地で発見された。その一つが妙法寺のある地だという。
 染屋時忠の娘に関する伝説は、来迎寺 魔の淵のお地蔵さま 辻の薬師堂 多聞院 六国見山 塔ノ辻にも残されている。






小庵跡碑
◎松葉ヶ谷法難
 日蓮四大法難のうちの一つ。日蓮は、「天変地異や飢饉疫病の原因は、他宗にある」とする過激な宗教活動をしたため、浄土教信者である念仏者たちによって焼き討ちされた。幕府の中にもこれを助成した者がいたらしい。
  参考:鎌倉と日蓮

☆伝説!松葉ヶ谷法難☆
 松葉ヶ谷の焼き討ちから日蓮を救い出したのは白い猿だったという。この白猿は日蓮「お猿畠」に連れていき、山中の生姜を日蓮に捧げたといわれている。この言い伝えにちなみ、妙法寺では、「厄除け生姜」の供養が行われている。

厄除け生姜供養〜鎌倉大町:妙法寺〜(okadoのブログ)
松葉ヶ谷法難・・・鎌倉:妙法寺(okadoのブログ)
日蓮が避難した「お猿畠」〜逗子:法性寺〜(okadoのブログ)



☆伝説!日蓮の四大法難☆
 鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に小庵を結び布教を開始した。
 そして、「正しい法に従わなければ国がだめになる」という論文『立正安国論』を宿谷光則を通じて北条時頼に提出した。
 のちに宿谷光則は日蓮に帰依し、自邸のあった場所に光則寺(長谷)を建てている。
 参考:立正安国論(okadoのブログ) 北条時頼への挑戦状・・・日蓮の立正安国論(okadoのブログ)

=松葉ヶ谷法難=
 日蓮は、他宗への批判と幕府への批判という過激な宗教活動を行ったため、念仏信者によって草庵を焼き討ちされ、千葉に逃れた(参考:法性寺)。

=伊豆法難=
 再び鎌倉に入った日蓮だったが、今度は伊豆流罪の刑に処せられる。
 材木座の浜から船出し、伊東沖の「まないた岩」という小さな岩に降ろされてしまうが、漁師の船守弥三郎に助けられた。
 のちに船守弥三郎の子(一説には弥三郎本人)は、妙長寺(材木座)を建てている。

=小松原法難=
 伊豆流罪を許された日蓮は一度故郷に帰るが、その際、小松原というところで、念仏信者である地頭の東条景信に襲われ、額を斬られるなど重症を負った。

=龍ノ口法難=
 再度鎌倉に入った日蓮は、捕らえられ龍ノ口で処刑されることになった(他宗の批判に対して憤りを持った極楽寺の忍性、光明寺良忠らの訴えがあったといわれている。)
 しかし、江ノ島の方角から不思議な光が飛んできたため、処刑は中止された。そのとき処刑場からは「日蓮の首を斬れない」という知らせをもった早馬が、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな」という早馬が出され、それらが行き合ったのが「行合川」七里ヶ浜)だったといわれている。日蓮はその後佐渡に流された(参考:ぼたもち寺(常栄寺))。




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鎌倉の日蓮宗の寺





妙法寺:鎌倉市大町4−7−4  0467(22)5813

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