鎌倉手帳(寺社散策)


北条執権政治
幕府滅亡後の鎌倉は・・・


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 執権とは、「政権を握る」という意味と考えられるが、鎌倉幕府の執権は、「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」のことをいうらしい。
 源頼朝が生存していた頃は、将軍独裁政権であったため、執権という職はさほど重要職ではなかったが、子の代になるとそうはいかなくなる。では、頼朝亡き後、どのようにして北条執権体制が確立されていったのであろうか。
 鎌倉幕府においては、政所別当を執権と称していたらしい。初代政所別当は大江広元だが、この広元を初代執権とするか否かは別問題として、「政所別当」という地位に注目すると、頼朝亡き後の北条氏の行動が理解できるかもしれない。

参考:北条執権館




時政建立の願成就院
(伊豆の国市)
初代執権:北条時政
 時政は、源頼朝亡き後、幕府の実権を握るための画策を始める。二代将軍の源頼家は、北条氏よりも妻の実家である比企氏を頼ったため、比企氏が権力を持つことをおそれた時政は、将軍独裁の政治から、宿老13人の合議制によることを提案し、13人の中に子の義時まで入れることに成功する。
 次に、「結城朝光が謀反を企てている」との讒言をした梶原景時を鎌倉から追放し、駿河でこれを討った(参考:梶原景時の変  梶原景時の追放 梶原景時の墓)。
 さらに、比企能員を自邸に招き、これを暗殺。比企一族も義時によって滅ぼされた(参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。この乱後、二代将軍頼家は伊豆修禅寺に幽閉した。この間、頼朝の弟全成が謀叛の罪で誅殺されている(阿野全成の誅殺)。
 時政は、比企を滅ぼしたのを機に「政所別当」に就任し、三代将軍実朝の補佐役となる。すなわち、時政が名実ともに執権となったということである。
 畠山重忠謀殺事件を機に北条政子義時姉弟によって出家させられた(参考:畠山重忠の乱 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替)。

参考: 北条時政邸跡 北条氏の故郷
梶原景時の変(okadoのブログ) 北条時政という武将(okadoのブログ)
源頼家の悲劇〜比企氏の乱の真相は・・・〜(okadoのブログ)
二代将軍源頼家(okadoのブログ)



二代執権:北条義時
 義時は、父時政の起こした畠山重忠謀殺事件を機に、時政を追放し「政所別当」となる(参考:畠山重忠の乱 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替)。
 次に、侍所別当であった和田義盛を討ち、その職「侍所別当」も兼ねることになる(参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。これ以降、「政所別当」と「侍所別当」を兼ねる者が執権となり、「政所別当」と「侍所別当」の職は、北条得宗家が世襲することとなる。

 義時時代の最大の事件は、「将軍実朝の暗殺事件」
 不明な点が多いが、義時はもちろん、公暁を討ち取った三浦氏も暗殺に絡んでいたことは間違いないと考えられる。
 源氏の血統が絶えると、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を下し、「承久の乱」が起こったが、義時は子の泰時らを派遣し、これを鎮めた。四代将軍には、京より藤原(九条)頼経が迎えられた。頼経は、頼朝の妹の曾孫にあたる。

戌神将伝説の覚園寺

六波羅探題
 1221年(承久3年)の承久の乱後、朝廷の動きを監視するため、京都に鎌倉幕府の出先機関としての六波羅探題が設置された。


参考: 法華堂跡 覚園寺 北条義時やぐら 釈迦堂 釈迦堂切通
源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜(okadoのブログ)
和田合戦〜北条義時の徴発と三浦義村の裏切り〜(okadoのブログ)
北条義時は暗殺されたのか?(okadoのブログ)
大倉薬師堂〜北条義時と戌神将の伝説〜(okadoのブログ)
公暁と源実朝の暗殺・・・源氏の滅亡(okadoのブログ)




泰時が眠る常楽寺
三代執権:北条泰時
 泰時は、伯母の北条政子が亡くなると、頼朝以来の大倉幕府宇津都辻子に移し政務を行う。
 裁判の迅速化を図るための「連署」「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)を制定し、本格的に北条執権体制の基礎を固めていく。
 一方で、和賀江嶋を築港し、巨福呂坂朝夷奈切通を開いた。

伊賀氏の変
 二代執権義時の死後、義時の後妻伊賀の方が、実子政村を執権に就かせようと画策したが、北条政子によって伊賀の方は追放された(伊賀氏の変)。

寛喜の大飢饉
 1229年(寛喜元年)から1232年(貞永元年)には、天候不順による飢饉が起こり、泰時はその対応におわれた。


北条泰時の政治・・・連署と評定衆の設置(okadoのブログ)
北条泰時の御成敗式目(貞永式目)




経時建立の光明寺
四代執権:北条経時
 泰時の子時氏が早くに死んだため、四代執権には泰時の孫である経時がなったが、将軍藤原(九条)頼経が実権を掌握しようとするなど反執権の勢力が盛り上がりをみせるようになる。
 経時は、将軍頼経を下ろし、頼経の子頼嗣を五代将軍とすることに成功したが、なお、頼経が鎌倉に留まっていたため、頼経追放を計画したが失敗する。
 それらの心労が重なり病に倒れ、執権職を弟の時頼に譲った。




時頼墓(明月院)
五代執権:北条時頼
 北条執権体制が最も充実した時代といわれる。時頼は、前将軍頼経を鎌倉から追放し(宮騒動)、反執権勢力を一掃した。
 さらに有力御家人三浦泰村を討つ(宝治合戦)とともに、将軍頼嗣を追放し、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが親王将軍のはじまりとなる。
 そして、宝治合戦の結果生まれたのが北条得宗家による独裁政治である。時頼の時代より、執権政治は「得宗専制政治」へと変化する。
 裁判のさらなる迅速化のため、評定衆の下に引付を設置している。
 宋から蘭渓道隆を招き建長寺を建立した。

北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜(okadoのブログ)
北条時頼の廻国伝説(okadoのブログ)
質素倹約と北条時頼(okadoのブログ)
得宗専制政治を確立した北条時頼(okadoのブログ)
北条時頼の死去(okadoのブログ)


商人に対する法令
 時頼の時代には、武家政権の中心地として発展を遂げる一方で、商人の数や商業活動に制限を加える必要も生じてきた(参考:商人に対する法令)。

鎌倉三名鐘:常楽寺梵鐘 建長寺梵鐘(国宝)



中継ぎの執権
 五代執権北条時頼は、1256年(康元元年)に北条長時に執権の座を譲る。
 これは、嫡男時宗(のちの八代執権)が幼少だったための措置。
 1264年(文永元年)、長時が病により辞任すると、七代執権には、北条政村が就任した。
 そして、1268年(文永5年)、蒙古襲来の危機に際して、八代執権に北条時宗が就任する(七代執権を務めた政村は連署になった。)。

得宗専制政治を確立した北条時頼(okadoのブログ)




円覚寺
八代執権:北条時宗
 時頼の長子時輔が側室の子であったことから時宗が嫡子となり、六代執権北条長時、七代執権北条政村を経由して八代執権となる。
 時宗の時代には二度にわたる元の襲来(元寇)があった。その間兄時輔の誅殺(二月騒動)や元の使節杜世忠らを殺害(参考:常立寺)するなど激動の中を生きた。
 元の襲来は何とか凌いだものの、心労が重なり34歳という若さでこの世を去る。
 外国を相手とする戦のため、活躍した者に与える恩賞もなく、この頃から御家人の鎌倉幕府への不満が高まってくる。
 宋より無学祖元を招き円覚寺を建立した。


参考: 北条時宗の命日〜時宗公毎歳忌〜(okadoのブログ)
莫煩悩〜元寇と北条時宗と無学祖元〜(okadoのブログ)
隆弁の予告と北条時宗の誕生(okadoのブログ)
北条得宗家の嫡子として誕生した北条時宗(okadoのブログ)
円覚寺の創建(okadoのブログ)




貞時建立の覚園寺
九代執権:北条貞時
 貞時が執権となると、内管領の平頼綱が勢力をのばし、頼朝以来の御家人安達泰盛と対立するようになる。頼綱の讒言により泰盛が滅ぼされる(霜月騒動)と、頼綱の恐怖政治が開始されるが、貞時は頼綱を誅殺し(平禅門の乱)、執権体制(得宗専制政治)を整える。
 1301年(正安3年)、貞時は執権を師時に譲っているが、執権を退いた後の貞時は、引付奉行人平政連の文書によると、享楽的な生活をしていたといわれている(政連から素行の改善の諌書が提出されている。)。
 1323年(元亨3年)に円覚寺で行われた貞時の十三回忌供養には、38ヶ寺の僧2000人以上が参列したという。

禅僧への禁制
 1294年(永仁2年)、禅僧の日常生活に関する禁制を定めた。

永仁の徳政令
 1297年(永仁5年)、元寇(蒙古襲来)以来、困窮する御家人救済のために、永仁の徳政令を定めるが失敗に終わっている。

北条貞時の発した永仁の徳政令(okadoのブログ)

鎌倉三名鐘円覚寺梵鐘(国宝)



中継ぎの執権
 1301年(正安3年)、九代執権北条貞時は執権の座を北条師時に譲った。その後、執権は、宗宣、煕時、基時を経て、十四代執権に北条高時が就任する。

十代執権北条師時(okadoのブログ)



十四代執権:北条高時
 貞時の四男。
 14歳で執権となるが、実権は内管領の長崎円喜(平頼綱の一族)らが握っていた。『太平記』などでは、闘犬や田楽などに興じた暴君などとの批判もあるが、病弱で24歳で執権職を辞している。
 新田義貞の鎌倉攻めによって、得宗北条高時をはじめ、北条一族が東勝寺で自刃したことによって、鎌倉幕府は滅んだ(参考:鎌倉幕府の滅亡)。

北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ)

東勝寺跡と高時腹切やぐら
 得宗北条高時が自刃したことによって、鎌倉幕府は滅亡したが、高時の子時行は落ちのび、のちに諏訪頼重に担がれ中先代の乱を起こし、一時鎌倉を占領する。
 その後、北畠顕家や新田義貞の遺児とともに足利尊氏と戦うが、捕らえられ龍ノ口で斬首された。これによって北条得宗家が滅亡する。

北条貞時十三回忌供養
 1323年(元亨3年)、北条高時を施主として、九代執権北条貞時の十三回忌供養が盛大に行われた。

文保の和談
 1317年(文保元年)、幕府は、持明院統と大覚寺統との皇位継承に関して仲裁を行っている。



最後の執権
 1326年(嘉暦元年)、十四代執権北条高時が執権を辞任すると、北条(金沢)貞顕が十五代執権となるが、嘉暦の騒動によって10日余りで辞任。十六代執権に北条(赤橋)守時が就任した。この守時が鎌倉幕府最後の執権となった。

鎌倉幕府最後の執権〜赤橋(北条)守時〜(okadoのブログ)



 幕 府 滅 亡 後 の 鎌 倉

 幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、京で「建武の新政」を開始した。
 鎌倉には、足利尊氏の弟の直義が詰めていたが、北条高時の子である時行が反乱を起こしたため(中先代の乱)、幽閉していた後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害し鎌倉を離れた(参考:鎌倉宮 護良親王の墓)。
 その後、尊氏が時行を追い出し鎌倉に入ったが、後醍醐天皇は尊氏追討の院宣を新田義貞に下し、これを鎌倉に向けた。尊氏が義貞を退け京に入ると、後醍醐天皇は吉野に逃れた(南朝)。これにより京では新たな天皇が就任し「南北朝の時代」となる。尊氏は、北朝より「征夷大将軍」に任ぜられ、室町に幕府を開いた。南朝と北朝は、室町幕府三代将軍足利義満の時代に統一される。
 将軍となった足利尊氏は、鎌倉に子の基氏を派遣し「鎌倉公方」として、関東と甲斐、伊豆を統治させた。鎌倉公方の補佐役である「関東管領職」には上杉憲顕が任ぜられ、以後管領職は上杉氏が世襲する。
 鎌倉では、時代を経るにつれ足利氏の力が衰え、代わって上杉氏の力が強まり、京都でも「応仁の乱」が起こることによって「戦国時代」へ突入していく。
 下克上の世で勢力を伸ばした小田原の北条氏(鎌倉時代に執権を務めた北条氏とは別)が関東を治めるようになると、鎌倉の地は政治から離れ衰退の道を歩んでいく。
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