鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その5
弁谷(べんがやつ)
崇寿寺跡



編集:岡戸事務所
カスタム検索


〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







 光明寺の北、補陀洛寺の東側の谷は、弁ヶ谷(べんがやつ)と呼ばれる。千葉氏の屋敷があったところで、千葉常胤を「弁ヶ谷殿」といったことから弁ヶ谷という地名がついた。
 弁ヶ谷には、1321年(元享元年)、北条高時が建てた崇寿寺があった。開山は南山子雲と伝えられている。この寺は、禅寺で五山・十刹に次ぐ格式である「諸山」に列せられた。崇寿寺に諸山を与えたのが最古といわれている。
 明治末から大正にかけての弁ヶ谷は、別荘地となり、夏目漱石も避暑に訪れていた。

☆伝説!蟹の恩返し☆
 弁ヶ谷の畑の中には「蟹の宮」と呼ばれる祠があった。子どもたちが捕まえた紫色の大きな蟹を、かわいそうだからといって土地の百姓が海に放してやった。すると、この蟹が、ある旱りの年に、この百姓の畑だけに雨を降られてくれた。
 以後、雨乞いの参詣者が訪れるようになったという。祠は明治末ころまであったという。


〜源頼朝が建てた最宝寺〜
 弁ヶ谷には、1195年(建久6年)、源頼朝が建てた天台宗の最宝寺があって、行基の薬師如来が本尊だったという。
 その後、浄土真宗に改宗され、小田原北条氏による浄土真宗への弾圧で、鎌倉から横須賀の野比に移転したと伝えられている(弾圧によって鎌倉に残った浄土真宗の寺は、小袋谷の成福寺のみとなった。)。


〜鎌倉散歩〜
※弁谷からは、山を越えて長勝寺へと行くことができる。
→→→鎌倉散歩道〜長勝寺から弁谷〜

(参考:鎌倉の海 鎌倉:海の見える寺


最後の奉公:長崎高重と崇寿寺南山和尚
 新田義貞稲村ヶ崎を突破し鎌倉に乱入してくると、北条高時の御内人長崎高重は、高時に覚悟を決めるよう伝え、「高重が一戦して帰ってくるまで自害はしないように。」といって東勝寺を出ていく。
 高重は義貞に挑む前に崇寿寺に立ち寄り、南山和尚に「武士とな何か。」を問い、「武士とは刀を頼って進む以外ない。」という教えを受け、笠符(かさじるし)をはずし、義貞の首のみ狙って新田軍になだれ込んだが、義貞を討つことはできず、高時の待つ東勝寺に戻った。
 高重は、人々に自害をすすめ、自らが自害してみせたと伝えられている(参考:鎌倉幕府の滅亡 南山和尚の泥牛庵(六浦))。

 長崎高重は、当時鎌倉幕府を牛耳っていた内管領長崎高資の二男。
 笠符とは、敵味方が区別できるよう付けるもので、高重は新田軍に紛れ込んで義貞を討とうとしたと伝えられている。

鎌倉炎上〜新田義貞の鎌倉攻め〜(okadoのブログ)




小町大路の散策(大町四ツ角〜材木座)
水道路から来迎寺・五所神社・實相寺・補陀洛寺・弁谷)







鎌倉寺社巡り その5トップ

鎌倉手帳トップ
鎌倉検定のページ
(3級・2級・1級の問題と解説)
カスタム検索