鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その5
来迎寺(材木座)


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=百六つ義明公《来迎寺》=
(時宗)

 材木座の来迎寺は、1194年(建久5年)、源頼朝三浦大介義明の菩提を弔うために建立した真言宗の寺が始まり(能蔵寺)。1335年(建武2年)、開山となる音阿が時宗に改宗した。
 三浦一族は、1180年(治承4年)の頼朝挙兵の際(石橋山の戦い)に出陣するも間に合わず、その帰路、由比ヶ浜で当時平家方だった畠山重忠軍と戦い、義明の孫多々良重春が討死した。
 その後、衣笠城が攻められ、義明は籠城の末、討死している(89歳)。
 頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」と呼ばれるようになる。
 本堂横には義明の五輪塔が、本堂裏には三浦一族の墓がある。
 本尊阿弥陀三尊は運慶作と伝えられ、義明の守り本尊だったといわれている。

鎌倉観音巡礼第14番札所(聖観世音)
開山 音阿
本尊 阿弥陀三尊


運慶〜鎌倉の武家政権と奈良仏師〜(okadoのブログ)




三浦大介義明墓
(左は多々良三郎重春墓)
 多々良重春は、三浦大介義明の孫。畠山重忠との戦いで来迎寺付近で討死した。


三浦義明の最期
 三浦義明は、頼朝の挙兵に合わせて一族を衣笠城から出撃させるが、折からの雨による増水によって酒匂川を渡ることが出来ず、石橋山の戦いに間に合わなかった。頼朝の敗北を知った三浦軍は、衣笠への帰路に着くことになる。その途中、由比ヶ浜大庭景親に従軍するために出撃してきた畠山重忠と遭遇してしまう。
 しかし、義明と重忠とは姻戚関係にあり、とくに重忠の母が義明の娘であったことから、お互いの了解の上で一戦を交えず、「三浦軍は衣笠に引き上げ、重忠はただそれを見とどける」という形をとったという。
 ところが、杉本城にいた三浦一族の和田義茂は、三浦軍が重忠に追われていると勘違いをして、重忠を攻めたことから事態が一変し、小坪口での合戦へと発展してしまう。
 三浦軍はその居城である衣笠城に辿り着いたものの、すぐに重忠が一族の江戸氏や河越氏を率いて衣笠城を攻めたため、義明は、子義澄らを逃し、自らは死を選んだ(小坪合戦と衣笠合戦)。

石橋山の戦いと衣笠合戦〜三浦義明の討死〜(okadoのブログ)


〜那須野の狐退治〜
 鳥羽天皇は、那須野の九尾狐の退治を三浦大介義明上総介広常に命じた。
 初めは狐の術にはまってしまったが、義明の矢が命中し、広常が刀でとどめを刺した。しかし、狐はその後巨大な石と化し、近づく人や鳥獣がみな死んでしまったため、殺生石と名付けられ恐れられた。
 そこで、源翁禅師が杖で石を破壊すると災いが止んだという(参考:海蔵寺 伝説!殺生石  殺生石の伝説〜三浦義明と上総広常と源翁禅師)。

相模の武将「三浦氏」ゆかりの地





三浦一族の墓
本堂裏手には、三浦一族の供養塔が並んでいる。

ミモザ
 毎年2月頃になるときれいな花を咲かせるミモザの木。
 参考:来迎寺のミモザ

ミモザ〜来迎寺(材木座)〜  ミモザシャワー
材木座来迎寺のサルスベリ



小町大路の散策(大町四ツ角〜材木座)
水道路から来迎寺・五所神社・實相寺・補陀洛寺・弁谷)


参考: 時宗総本山遊行寺(清浄光寺)
鎌倉の時宗の寺
三浦一族の墓の横にはサルスベリの木があります。
本堂前の棚にはノウゼンカズラが咲きます



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来迎寺:鎌倉市材木座2−9−19  0467(22)4547

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