鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その6
阿仏尼邸跡


編集:岡戸事務所
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 極楽寺駅からほど近い月影ヶ谷には、『十六夜日記』の作者阿仏尼の屋敷があったとされる。
 阿仏尼は、藤原定家の子為家の妻で、冷泉為相の母。
 相続争いでの子の正当性を訴えるため鎌倉にやってきた。
 参考⇒阿仏尼墓 十六夜日記 冷泉為相墓

 月影地蔵堂は、阿仏尼邸に置かれていたという地蔵菩薩像が移されたということから、そう呼ばれているのだという。


 為家は、正室の子為氏に財産を相続をさせていたが、親不孝を理由に、阿仏尼との間に生まれた為相に「財産を譲る」という遺言を残して亡くなった。
 当時の相続は、親が生存中に行うことができるとともに、相続させた財産を返してもらうということも可能だった。
 この為家の遺言が争いのもととなり、為氏は鎌倉幕府に訴訟を起こすことになる。そのため、阿仏尼は、為相の相続の正当性を訴えるため、1279年(弘安2年)、鎌倉に下ったとされている(1277年(建治3年)だったという説もある。)。

「東(あずま)にて住む所は、月影の谷」
〜『十六夜日記』〜
あづまにてすむ所は 月かげのやつとぞいふなる
浦近き山もとにて 風いとあらし
山寺のかたはらなれば のどかにすごくて浪の音松のかぜたえず


 父為家の遺産を巡って為相と異母兄との間に相続争いが起ったことから、為相の実母である阿仏尼が息子の正当性を幕府に訴えるため、鎌倉に下ってきたときのことが書かれている。
 英勝寺にほど近い「やぐら」が阿仏尼の墓だと伝えられる(京に戻ってから死んだともいわれる。)。
 息子の為相も母を慕って鎌倉に下っており、藤ヶ谷に屋敷があったとされ、鎌倉における歌壇の指導に当たったと伝えられる。為相が住まいしたことで「藤ヶ谷」という地名となった。浄光明寺の裏山には、冷泉為相墓と伝わる供養塔がある。
 なお、十六夜日記には、訴訟の結果が記されていないため、阿仏尼は為相が勝訴したことを知らずに死んでいったと考えられている。

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