鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その6
極 楽 寺


編集:岡戸事務所
カスタム検索


〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







=ボランティアの先駆者忍性《極楽寺》=
(真言律宗)

 二代執権北条義時の三男重時が、深沢に正永和尚が建てた念仏堂を移建し、1267年(文永4年)、重時の子長時(六代執権)、業時が当時多宝寺にいた忍性を招いて開山した。
 七堂伽藍と四十九の支院を持つ壮大な寺院であったが、新田義貞の鎌倉攻めによって焼失し、以後再建を繰り返したが、その度に焼失。現在は吉祥院を残すのみとなった。
 忍性は悩める貧しい人々を救済するために、施薬院・悲田院・施益院・福田院を設け福祉事業に取り組み、「医王如来」と崇められた(人間のみならず、病気の牛馬の面倒もみた。)。鎌倉七口の一つ「極楽寺切通」は忍性が開いたとされる。
 境内には、忍性が粥を施したとする「極楽寺ノ井」や「千服茶臼」、「製薬鉢」が残っている。「八重一重咲分桜」は、八代執権北条時宗のお手植えとされる。

鎌倉観音巡礼第22番札所(如意輪観世音)
鎌倉地蔵巡礼第20番(導き地蔵)、第21番札所(月影地蔵)
鎌倉十三仏第12番札所(大日如来)

開山 忍性
開基 北条重時
本尊 釈迦如来(清涼寺式釈迦如来)

 正式名称は「霊鷲山感応院極楽寺」。開山の忍性が「霊ガ池」で祈祷を行っていると鷲までもが感応したという故事に由来するという。


鎌倉を訪れた後深草院二条・・・『とはずがたり』(okadoのブログ)



本尊開扉
 毎年4月7日〜9日の間に転法輪殿の本尊清涼寺式釈迦如来立像が特別開扉される。
 吉祥院内も公開され、叡尊像や忍性像の拝観もできる。また、4月8日の「花祭り」の日には忍性墓が特別公開される。 
◎転法輪殿
 本尊清涼寺式釈迦如来立像の他、釈迦如来坐像、十大弟子像、釈迦如来坐像などが納められ、季節によって参拝することができる。
奥の院への階段 忍性墓のある山

◎清涼寺式釈迦如来
 京都の清涼寺の像を模したもの。「然(ちょうねん)という僧が、宋に渡った際、釈迦在世中に造られたという像を模刻させ、日本に持ち帰ったものが、清涼寺の釈迦如来像で、「三国伝来の釈迦如来」と呼ばれている。
 極楽寺の清涼寺式釈迦如来立像は、扇ヶ谷にあった新清涼寺釈迦堂の本尊であったという説もある。新清涼寺釈迦堂には、鎌倉に下向した叡尊が滞在している。
 ※清涼寺の「涼」の字は、正確には「さんずい」ではなく「にすい」。

極楽寺の本尊開扉・忍性墓特別公開(okadoのブログ)

◎忍性墓
 忍性の墓は、極楽寺背後の山の中腹(奥の院)にあって、巨大な安山岩製の五輪塔(高さ3メートル57センチ)。忍性墓からは、銅製の骨蔵器が発見され、国の重要文化財に指定されている。
 忍性は、1303年(嘉元元年)7月12日、極楽寺で最期を迎えた(87歳)。
 国の指定史跡。

忍性塔(墓)・・・極楽寺(okadoのブログ)

◎北条重時墓
 忍性墓の傍らにある宝篋印塔が重時(北条義時の三男)の墓とされている。
 もともと寺伝には、この宝篋印塔が重時の墓であることが記されていたが、昭和36年までは、忍性墓から少し離れた五輪塔が重時の墓とされてきた。
 この五輪塔は、昭和36年の集中豪雨によって倒れた際に発見された舎利器から、極楽寺三代の順忍の墓であることが判明している。
 重時は、深沢にあった極楽寺を現在の地に再建しようとその建立に着手したが、完成を見ずに亡くなった。


如意輪観音が祀られた観音堂

関東の駅100選に選ばれた極楽寺駅

極楽寺本尊開扉・忍性墓特別公開(okadoのブログ)



鎌倉伝説集

☆伝説!弁慶腰掛の松☆
 源義経は、平家を滅ぼした後、源頼朝の怒りに遭い鎌倉に入ることができず、腰越の満福寺から頼朝へ弁解のための書状(腰越状)を提出した。結局許されなかったのだが、弁慶は、極楽寺奥の山にあった松の木にのぼって腰を掛け、鎌倉を睨みつけ無念の涙をこぼしたという。

源義経の伝説を巡る旅

☆伝説!北条時宗☆
 極楽寺の奥には、馬術けいこのための馬場があった。あるとき、北条時頼宗尊親王(六代将軍)をつれて馬場にやってきたが、小笠懸(おがさがけ)では、だれも的を射とめることができなかった。
 「だれか的を射れる者はいないのか。」との親王の言葉に参加者は黙ってしまったが、時頼は11歳の子時宗に挑戦させ、時宗はその期待にこたえ、見事一発で的を射とめたという。





良観房忍性
 開山の忍性は大和国(奈良県)に生まれ、信心ぶかかった母の臨終を機に、大和国額安寺に入って出家(16歳)、翌年東大寺戒壇院で受戒した。24歳のときに叡尊を師と仰ぎ奈良西大寺に入って「律」を学ぶ。社会事業に力をそそぐ叡尊の影響を強く受けた。
 36歳のときに西大寺流の律を広めるために坂東に向けて旅立ち、常陸国に住んだ。
 その後、1262年(弘長2年)、北条業時の招きによって鎌倉に入り、多宝寺に住持する。
 そして、1267年(文永4年)、極楽寺の開山に迎えられた(51歳)。
 以後、37年間にわたって極楽寺で過し、律の布教と慈善救済事業に力をそそいだ。
 飢饉のときには粥を施し、さまざまな救済施設を建てた。桑ヶ谷には、北条時宗の命により療養所(桑ヶ谷療養所)を建て、多くの者を救った。忍性の救済事業は、人間に限られたものではなかった。牛馬のための馬病舎も建てている。
 忍性は、土木事業にも力をそそぎ、鎌倉七口の一つ極楽寺切通を開いたとされている。
 1303年(嘉元元年)7月12日、極楽寺で示寂。1328年(嘉暦3年)、後醍醐天皇より菩薩号を勅書をもって許された。

,桑ヶ谷療養所跡碑

〜医王如来の足跡〜


千服茶臼

製薬鉢

◎極楽寺ノ井
 山門前を掘り起こしたときに発見されたという井戸。
 鎌倉石を八段積み上げたもので、開山忍性が、粥を施すために使用した井戸と伝えられている。

飢饉・天災と忍性の救済活動〜極楽寺〜(okadoのブログ)



〜鎌倉の律宗の寺〜
 1262年(弘長2年)、叡尊の鎌倉下向によって、鎌倉での西大寺流律宗の基盤が固められ、弟子の忍性は、1267年(文永4年)、極楽寺に入山した。鎌倉での叡尊は、新清涼寺釈迦堂に滞在したといわれている。
 扇ヶ谷の浄光明寺の近くにあったとされる多宝寺も西大寺流律宗の寺とされ、忍性が開山となったと伝えられている。


称名寺

浄光明寺

東林寺跡

多宝寺跡(覚賢塔)

 浄光明寺は、現在真言宗泉涌寺派の寺院。かつては、浄土・華厳・真言・律の四宗兼学の寺院だった。



〜和賀江嶋の管理と関料徴収〜
 現存する日本最古の築港である和賀江嶋は、極楽寺の管理下に置かれ、関料徴収(津料)の権利も極楽寺に与えられていた。津料とは、港を通過する人や貨物から徴収した税金のこと。
 これは、開山忍性の行った社会事業に対し、鎌倉幕府が下層民や職人の統括を極楽寺に委ねたことに起因している。
 室町時代となっても足利尊氏より同様の権利が与えられている。

〜仏法寺跡〜
 霊山山にあったとされる仏法寺は、極楽寺の支院の一つだった。『極楽寺絵図』にも描かれ、霊山寺跡と呼ばれる遺跡と同じと考えられている。
 平成14年度に発掘調査が行われ、平成18年に国の指定史跡に指定されている。




極楽寺の夏 (サルスベリ

八重一重咲分桜

鎌倉極楽寺のサルスベリ(okadoのブログ)  八重一重咲分桜〜極楽寺〜(okadoのブログ)



近くには・・・。


導地蔵堂
 この地蔵の視野の中に入る場所では、子どもたちに災難が起きないという。鎌倉二十四地蔵の一つ。
 詳しくは写真をクリック

月影地蔵堂
 もと月影ヶ谷にあったお地蔵さまをこの地に移したのでこの名がある。
 地蔵堂の裏山を上ると鎌倉山
 鎌倉二十四地蔵の一つ。
 詳しくは写真をクリック

伝上杉憲方墓
 極楽寺坂沿いに並ぶ石塔のうち七層のものが憲方のものといわれ、隣の五層のものが妻のものとされている(参考:明月院やぐら)。
 詳しくは写真をクリック




極楽寺切通  極楽寺から稲村ヶ崎へ  鎌倉の桜2011
極楽寺本尊開扉・忍性墓特別公開  極楽寺のシロフジ  八重一重咲分桜
鎌倉:極楽寺のサザンカとツワブキ2011/11/27
武家の古都・鎌倉の世界文化遺産推薦
八重桜と八重一重咲分桜・・・初夏の鎌倉:極楽寺2012/04/29






極楽寺:鎌倉市極楽寺3−6−7  0467(22)3402

鎌倉寺社巡り その6トップ

鎌倉手帳トップ
鎌倉検定のページ
(3級・2級・1級の問題と解説)
カスタム検索