鎌倉手帳(寺社散策)

夏だ!休みだ!鎌倉だ! 鶴岡八幡宮例大祭



稲村ヶ崎

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







稲村ヶ崎


大海の磯もとどろに寄する波
破れて砕けて裂けて散るかも

源実朝の歌が似合う場所。
この歌がどこの海を見て詠まれたかは不明ですが・・・

   『金槐和歌集』



☆伝説!龍神に祈った新田義貞☆

 由比ヶ浜七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。

 新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍もはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説がある。

 新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」にも「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。

 ※稲村ヶ崎は、源頼朝が落馬した地ともいわれている(参考:旧相模川橋脚)。


稲村ヶ崎

稲村ヶ崎碑の後方には明治天皇の歌碑が建てられている。

「なげ入れしつるぎの光あらはれて千尋の海も陸となりぬる」

稲村ヶ崎
明治天皇の歌碑



鎌倉海浜公園稲村ヶ崎
鎌倉海浜公園
(稲村ガ崎地区)
稲村ヶ崎からの富士
関東の富士見百景

 稲村ヶ崎は海岸線に点在する3つの鎌倉海浜公園のうちの一つ。





☆新田義貞☆

 新田義貞は、足利尊氏と同じく源義家(八幡太郎義家)の子義国を祖とする源氏。

 現在の群馬県新田庄を領したことから「新田氏」を名乗る。

 新田氏は、鎌倉御家人として仕えていたが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かった。


新田義貞像
新田義貞像
(府中:分倍河原駅前)


 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田庄生品神社で討幕の挙兵をする。

 挙兵時は150騎程度だったといわれているが、軍を進めるに従いその数を増し、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで幕府軍を破り進軍した。

 5月21日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った義貞は、北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした(参考:鎌倉幕府の滅亡)。

 しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、長くは続かず、足利尊氏を棟梁としての武家による政治が望まれるようになると、尊氏と義貞は敵対し、義貞は敗れて越前で最期を遂げた。

  参考:聖福寺跡(新田義貞が陣を布いたとされる場所)



ボート遭難碑
ボート遭難碑
ロベルト・コッホ記念碑
ロベルト・コッホ
記念碑


かながわの景勝50選
かながわの景勝50選







〜ペリー来航と稲村ヶ崎〜

 1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国の海軍艦隊が浦賀に来航した(黒船来航)。
 艦隊を率いてきたのはマシュー・ペリー提督。
 日本人からはペルリ(彼理)と呼ばれていたらしい。

 この黒船来航で、稲村ヶ崎には長州藩によって砲台と見張番所が設けられた。

 霊山山頂には坂ノ下の村民が交替で見張り番をして、黒船がやってきたら半鐘を鳴らす手筈になっていたという。


霊山
霊山



〜伝説!茶店の絵図売り婆さん〜

 昔、稲村ヶ崎から極楽寺へと向かう道の曲がり角には、茶店があった。

 この茶店には、鎌倉絵図を出して講釈をして、その絵図を十二文で売りつける婆さんがいたそうだ。

 江ノ島からの遊覧客をつかまえるのに絶好の場所だったとみえて、3軒ほどの茶店があったらしい。






磯づたい道
磯づたいの道
稲村ヶ崎のアジサイ
アジサイ

イソギク
イソギク
ススキ
ススキ





稲村ヶ崎古戦場

稲村ヶ崎

鎌倉炎上〜新田義貞の鎌倉攻め〜

新田義貞伝説〜黄金の雌雄の太刀〜

鎌倉の四角四境祭

稲村路と霊山山(霊山ヶ崎)

極楽寺から稲村ヶ崎へ





稲村ヶ崎
稲村ヶ崎

 由比ヶ浜七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。


江ノ電「稲村ヶ崎駅」から徒歩5分



鎌倉:寺社・史跡巡り
稲村ヶ崎・極楽寺・坂ノ下
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江ノ電で鎌倉






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