
四条金吾の本名は「四条頼基」。左衛門尉であったことから唐名で「金吾」と呼ばれた。
「収玄」は金吾の法名「収玄院日頼」に由来するもの。
現在の本堂は大正12年に建てられたもので、その時に「収玄庵」から「収玄寺」と改められている。 |

東郷平八郎が揮毫した石碑
〜江間光時と四条金吾〜
江間光時(北条光時)は、北条朝時から始まる名越氏の一族。通常、「名越光時」と呼ばれる。
1246年(寛元4年)、執権北条時頼に対する謀叛の疑いで、伊豆の江間に流された(宮騒動)ことによって「江間光時」と呼ばれた。1262年(弘長2年)、鎌倉に入った叡尊(西大寺流律宗)から受戒している。
一方、四条金吾は、名越氏の家臣。1277年(建治3年)、日蓮の弟子三位坊日行が、極楽寺の忍性の下にいた天台宗の僧竜像坊を論破した「桑ヶ谷問答」では、竜像坊から、金吾が徒党を組んで乱入し法座を乱したとの讒言があったことから、光時より法華経を捨てなければ領地を没収するとの命が下った。金吾から相談された日蓮は、光時に対し「頼基陳情」を書いたと伝えられている(日蓮の考えに感動した金吾は、この陳情を光時には提出せず、法華経信仰と日蓮への絶対帰依を誓ったといわれている。)
その後、光時が病に罹った際、医学の心得のある金吾が治療を施したことにより快方に向かったことから、没収されていた領地が返還されたという。 |
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