鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その7
英 勝 寺


編集:岡戸事務所
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=水戸さまの尼寺《英勝寺》=
(浄土宗)

 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。
 開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌から数えて四代の孫康資の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。
 家康に仕えていた頃の英勝院尼は、「戦には必ず勝利をもたらした」ので、「お勝の方」と呼ばれ、壽福寺前にあったとされる鎌倉十橋の一つ勝ノ橋」は、英勝院尼が架けたことからこの名がついた。
 家康の死後、徳川三代将軍家光より道灌の土地を譲り受け、英勝寺を建立し、頼房の息女玉峯清因を開山に迎えた。徳川光圀もこの寺を訪問しており、英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を務めたため、「水戸御殿」とも呼ばれたが、六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、徳川家の支援によって維持された。


竹林(姫御殿跡)
開山 玉峯清因
開基 英勝院尼
本尊 阿弥陀如来

◎本尊阿弥陀三尊立像
 江戸幕府三代将軍徳川家光の寄進で運慶作。

金刀比羅宮

運慶〜鎌倉の武家政権と奈良仏師〜(okadoのブログ)

 英勝寺の尼は代々、光明寺の和尚を師と仰ぎ光明寺に通っていた。1846年(弘化3年)、偶然にも八王子代官所の役人が光明寺へと通う尼の行列を見たときの書留によると、100人余りの従者がいたという。当時の英勝寺が大名屋敷のようなものだったことが推測できる(参考:乱橋(伝説!乱橋の大喧嘩))。

英勝寺の仏殿(okadoのブログ)  英勝寺2011/04/30(okadoのブログ)
水戸御殿と呼ばれた英勝寺(okadoのブログ)




道灌の首塚
◎太田道灌
 太田道灌は、扇谷上杉家の家老を務め、数々の戦に功績を残し、扇谷上杉氏の地位を高めたが、その能力を恐れた上杉定正によって伊勢原市で暗殺される。
 道灌は江戸城や河越城を築いたことでも知られている。
 英勝寺の裏山に道灌の首塚がある。

 参考:太田道灌の墓(伊勢原市) 太田道灌の首塚(okadoのブログ)

☆伝説!山吹と道灌☆
 鷹狩り出かけた道灌が、ひどい雨に降られ、蓑でも借りられないかと農家に立ち寄ったところ、一人の少女が出てきて「山吹の花」を差し出した。道灌は意味がわからず、その話を家臣にしたところ、少女の意が山吹の花にちなんだ古歌「七重八重 花は咲けども 山吹の実(蓑)のひとつだに なきぞ悲しき」にあったことを教えられた。
 「貧乏でお貸しできる蓑さえない」という意味で、「実」と「蓑」をひかっけた少女のとんちだった。
 道灌は自分の教養のなさを恥じ、その後は学問に励み、文武両道を供えた名君になったという。その地は、今でも矢吹の里と呼ばれているらしい。

 仏殿脇には、太田道灌の故事にちなんでヤマブキが植えられている。

太田道灌とヤマブキ〜英勝寺〜(okadoのブログ)






◎唐門
 英勝院の墓廟である祠堂への門。ボタンの彫刻が施され、江戸時代の高度な技術をみることができる。
 唐門の奥には華麗な色彩装飾の祠堂がある(鞘堂の中)。
 開基英勝院の位牌を安置する堂で、背後は英勝院と開山玉峯清因の墓となっている。徳川光圀によって建てられ、完成の折には光圀も来訪した。
 唐門・祠堂ともに県重要文化財。

鞘堂内の祠堂


英勝院の墓

英勝院墓背後のやぐら

 祠堂前には、市の天然記念物の「侘助」(ツバキ)が植えられている。

侘助(okadoのブログ)

◎鐘楼
 袴腰の鐘楼は県重要文化財。寛永20年銘(銘文:林道春)の梵鐘がかけられている。
 この梵鐘は、関東大震災によって鐘楼が崩壊した後、三浦(横須賀)の福本寺に移されていたが、昭和32年に鐘楼が復元されたときに返された。

 英勝寺の袴腰付鐘楼(okadoのブログ)

◎山門
 英勝寺の山門は、大正12年の関東大震災で倒壊し、山王ヶ谷の資産家に買い取られ、長年、山王ヶ谷にあった。
 英勝寺に買い戻されて後、復興工事が行われていたが、平成23年5月16日に落慶供養が行われている。
 讃岐高松藩主松平頼重によって建立されたもので、県の重要文化財に指定されている。
 
 英勝寺山門の復興工事・・・もうすぐ完了(okadoのブログ)
 復興された英勝寺山門(okadoのブログ)

◎三霊社権現
 山門横の崖に掘られた洞窟。10メートルほどの洞窟内には仏像が安置されている。

 英勝寺の三霊社権現(okadoのブログ)


〜英勝寺の花〜
英勝寺の梅(okadoのブログ)  英勝寺2011/04/30(okadoのブログ)
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英勝寺のヒガンバナ(okadoのブログ)




詳しくは写真をクリック
近くに→→→阿仏尼の墓
 英勝寺から50メートルほどのところに、『十六夜日記』の著者阿仏尼の墓と伝わる供養塔がある。昔はここも境内だった。
(参考:阿仏尼邸跡 冷泉為相墓

〜「智岸寺」と「どこも苦地蔵」〜
 英勝寺が創建される前、この辺りには智岸寺という寺があった。
 江戸初期までは、智岸寺の地蔵堂があったといわれている。
 現在、瑞泉寺の地蔵堂に安置されている伝説の「どこも苦地蔵」は、智岸寺の地蔵堂に安置されていたもの。
 智岸寺が廃された後、鶴岡八幡宮正覚院(二十五坊)に移され、明治の神仏分離後、瑞泉寺に移された。
 智岸寺も尼寺だったといわれ、東慶寺の旭山尼が隠居した寺でもあった(旭山尼は太平寺住職青岳尼の妹)。
 参考:どこも苦地蔵堂  伝説!どこも苦地蔵

どこも苦地蔵と阿仏尼の墓(okadoのブログ)  神仏分離と鶴岡八幡宮(okadoのブログ)


☆十六夜日記☆
 八代執権北条時宗の頃、藤原定家(新古今和歌集の撰者)の孫で冷泉家の祖となった為相の母(阿仏尼)が書いた紀行日記が『十六夜日記』。
 『十六夜日記』には、遺産を巡って為相と異母兄との間に相続争いが起ったことから、為相の実母である阿仏尼が息子の正当性を幕府に訴えるため、鎌倉に下ってきたときのことが書かれている。
 阿仏尼は極楽寺辺りの月影ヶ谷に屋敷があったとされ、英勝寺にほど近い「やぐら」が阿仏尼の墓だと伝えられる(京に戻ってから死んだともいわれる。)。
 息子の為相も母を慕って鎌倉に下っており、藤ヶ谷に屋敷があったとされ、鎌倉における歌壇の指導に当たったと伝えられる。浄光明寺の裏山には、為相の墓と伝わる供養塔があるが、果たして鎌倉で死んだかは不明である。
 いずれにしても、阿仏尼の墓と為相の墓はごく近い位置にあり、親子の愛が感じられる話である。
 なお、『十六夜日記』には、訴訟の結果が記されていないため、阿仏尼は為相が勝訴したことを知らずに死んでいったと考えられている。
(参考:阿仏尼邸跡 冷泉為相墓

どこも苦地蔵と阿仏尼の墓(okadoのブログ)
『十六夜日記』は、中世の三大紀行の一つ。
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武蔵大路の散策  壽福寺から源氏山へ


鎌倉の浄土宗の寺  鎌倉:梅の名所 鎌倉の梅2010





英勝寺:鎌倉市扇ガ谷1−16−3  0467(22)3534

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