鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その7
日野俊基の墓
〜葛原ヶ岡:鎌倉〜


編集:岡戸事務所
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日野俊基の墓
 日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉に派遣し、告文をもって弁明したことにより罪に問われなかった。告文とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。佐渡に流されていた日野資朝も処刑されている。後醍醐天皇は隠岐に流された。
 捕らえられた俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。

後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基(okadoのブログ)

葛原岡神社の初詣と無患子守




俊基朝臣墓所の碑
 俊基の家臣、後藤左衛門尉助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願しやっと渡すことができたという。俊基は、「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」という辞世の歌を残したといわれている。
 『太平記』は処刑の様子を、「俊基畳紙を取出し。頸の廻りを押拭い、其紙を推開いて、辞世の頌を書き給う。古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清と筆を差置きて、鬢の髪をなで給う程こそあれ、太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う。」と記している。

葛原岡神社例祭(6月3日)



 俊基が斬首された翌1333年(元弘3年)、新田義貞は、巨福呂坂極楽寺切通、そして俊基の眠る仮粧坂から鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
 明治に入り、俊基は倒幕の功労者として評価され、明治21年、日野俊基を祭神とする葛原岡神社が創建された。参道の桜並木は、俊基顕彰行事の一環として大正13年に植えられたという。 


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