鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その7
岩船地蔵堂
〜源頼朝の娘大姫の守本尊:鎌倉〜


編集:岡戸事務所
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 扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。
 守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっている。
 1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。
 その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているという。その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていた。
 最近になって新しい堂に建て替えられ、木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置している。外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。
 岩船地蔵堂は海蔵寺に管理されている。



〜大姫と義高〜
 大姫の婿となった義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。
 1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。
 大姫も義高に懐き幸せに暮らしていたが、1184年(元暦元年)正月、頼朝の命によって上洛した源義経らに父義仲が討たれた。、頼朝は子の義高も殺そうとしたが、それを察知した大姫は、義高に女装させて逃がしたといわれている。しかし、義高は、頼朝が派遣した堀親家によって、武蔵国入間川で殺害された(参考:木曽義高の誅殺)。
 常楽寺裏山の木曽塚は、義高の墓と伝えられている。


木曽塚


源義仲と源頼朝(okadoのブログ)
木曽義高の誅殺と大姫(okadoのブログ)



〜大姫の悲しみ〜
 父頼朝によって義高が殺されたと知ると、幼い大姫は病の床に臥し、水も口にできないほど衰弱したという(義高を婿としたのは6歳のときだったといわれている。)。
 このような娘の姿を見た母政子は、義高を討った堀親家の家臣藤内光澄を引き出し、その首を斬っている。
 しかし、大姫の精神的なショックは大きく、生涯良くはならなかった。
 1186年(文治2年)には、勝長寿院に参籠させ病気回復を祈願させたが効果はなかった。このとき大姫は、静御前の噂を耳し、その舞を見せてもらっている(参考:静の舞)。
 1195年(建久6年)、入内のはたらきかけをするため、父頼朝に従って上洛したが、入内を拒否しつつ、1197年(建久8年)7月14日死去した。
 遺体は勝長寿院に葬られたと考えられるが定かではない(常楽寺には、大姫の塚と伝わる姫宮塚がある(参考:木曽塚)。)。






〜源頼朝が日向薬師に病気治癒祈願〜
 頼朝は、1194年(建久5年)、木曽義高との悲恋が原因で病となった大姫の治癒祈願のため、霊山寺(日向薬師)を参詣し「大太鼓」を納めたといわれている。

大姫の病気治癒祈願〜源頼朝・・・日向薬師を参詣〜(okadoのブログ)



〜頼朝の二女乙姫の墳墓堂か・・・?〜
 岩船地蔵堂は、大姫の妹乙姫(三幡)の墳墓堂ではないかという説もある。事実、そういう伝承もあるらしい。木造地蔵尊の胎内銘札にも息女と書いてあるのみで大姫とは書かれていない。
 乙姫(三幡)の乳母夫は、中原親能で、亀ヶ谷に屋敷があったものと推定されている。その親能の亀谷堂に関する『吾妻鏡』の記事では、「姫君を亀谷堂の傍らに葬った。」と書かれている(1199年正治元年)。
 同じく『吾妻鏡』によると、1199年(正治元年)5月、乙姫(三幡)が病気にかかったときに、京都から呼び寄せられた名医丹波時長が最初に滞在してのが、亀ヶ谷の中原親能の邸だったと書かれていることから、この周辺に親能の屋敷があったことが推定できる(参考:畠山重忠邸跡址)。
 現在、この辺りは扇ヶ谷という地名だが、鎌倉時代には亀ヶ谷が一般的な呼び名であった。




武蔵大路の散策  亀ヶ谷坂
源頼朝の失政か?・・・大姫入内問題(okadoのブログ)





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