鎌倉手帳(寺社散策)
鎌倉寺社巡り その7
浄光明寺
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岡戸事務所
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=矢拾い地蔵《浄光明寺》=
(真言宗泉涌寺派)
浄光明寺は、
源頼朝
が
文覚上人
に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、
頼朝
の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれている。
1251年(建長3年)、六代執権北条長時が開山に真阿を招いて再興し、「浄光明寺」とした。
開山の真阿は没後、「真聖国師」号を賜っている。
鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所となる一方、浄土・華厳・真言・律の四つの勧学院が建てられ、四宗兼学の寺院となる。
盛時には、10の支院があったという。
足利尊氏
は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、
中先代の乱
を平定したため、一時、浄光明寺に蟄居するが、弟
直義
に説かれ、ここで後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたといわれる。
鎌倉観音巡礼
第25番札所
鎌倉地蔵巡礼
第16番、第17番札所
(網引地蔵、矢拾地蔵)
鎌倉十三仏
第9番札所(勢至菩薩(都市王))
開山
真阿(真聖国師)
開基
北条長時
本尊
阿弥陀三尊(
鎌倉六阿弥陀
)
浄光明寺裏山の稲荷社(いろんな鎌倉)
美人祈願の楊貴妃観音・・・浄光明寺(いろんな鎌倉)
阿弥陀堂
◎
阿弥陀堂
(仏殿)
本堂奥の階段を上がると阿弥陀堂。一説には、二階堂の
永福寺
から移築されたもの、または、その古材で建てられたものといわれている(市指定文化財)。
現在は、三世仏(弥勒菩薩・釈迦如来・阿弥陀如来)が安置されている。
阿弥陀堂前の槇の古木は、鎌倉市の天然記念物。
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◎木造阿弥陀三尊坐像
本尊の阿弥陀三尊坐像(国重要文化財)は、阿弥陀堂の横の収蔵庫に安置されている。
開基北条長時の孫久時の発願によって1299年(正安元年)に造立。宋様式が残された秀作の一つ。
中尊の阿弥陀如来坐像は宝冠阿弥陀で、鎌倉地方独特の装飾技法である
「土紋」
が施されている。
参考:
土紋装飾の仏像
鎌倉様式の阿弥陀三尊像(okadoのブログ)
水晶の五輪塔・・・浄光明寺(okadoのブログ)
◎木造地蔵菩薩立像
(矢拾地蔵)
足利直義
の守り本尊といわれる地蔵菩薩像は、「矢拾地蔵」とも呼ばれ、阿弥陀堂横の収蔵庫に安置されている(県重要文化財)。
鎌倉二十四地蔵
の一つ。
参考:
足利直義を助けたお地蔵さま(okadoのブログ)
☆伝説!直義を助けた地蔵菩薩☆
足利尊氏
の弟
直義
は、
中先代の乱
の折、自分の矢が尽きてしまった。その時、子どもの僧が矢を拾い集めてきてくれた。この子どもの僧は、直義が日頃信心していた地蔵菩薩であったという。
そのため、この寺の木造地蔵菩薩立像は、別名「矢拾地蔵」と呼ばれる。
◎愛染明王像
客殿には、
元寇(蒙古襲来)
調伏の祈祷の際に本尊とされたという愛染明王が安置されている(市指定文化財)。
願行
作ともいわれているもの。
願行
は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた人物で、
大山寺
の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造した。
不動堂
◎不動明王像
不動堂に安置されているのは、通称「八坂不動明王像」。
京都八坂の五重塔が皇居の方へ傾いたときに、八坂寺の浄蔵貴所がこの像に祈ると元に戻ったという。そこから「八坂不動明王像」と呼ばれるようになった。
その後、京都高雄山に祀られていたが、
文覚
が以仁王の令旨をこの像の中に隠し、伊豆に流されていた
源頼朝
に渡したという伝説が残されている。
怪僧文覚と源頼朝
浄光明寺のスイセン
不動明王像と愛染明王像の特別公開
鎌倉・・・除夜の鐘
本堂
鐘楼
除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜
鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は、1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子成良親王を擁して下向していた
足利尊氏
の弟
直義
が治めていた。
翌年、
北条高時
の遺児時行が反乱を起こし(
中先代の乱
)、直義や成良親王は鎌倉を逃れた。その折、東光寺(現
鎌倉宮
)に幽閉されていた護良親王が直義によって殺されている(参考:
護良親王の墓
)。
鎌倉は、一時的に時行によって占領されたが、尊氏が三河まで撤退していた直義と合流し、時行を破って、鎌倉を再び足利氏の手中とした。直義と行動を共にした成良親王は京に帰されている。
尊氏は、時行討伐を行う際、後醍醐天皇に時行討伐と同時に、征夷大将軍の要請を行うが拒否されてしまう。鎌倉に入った尊氏は、後醍醐天皇の上洛命令を無視し、建武の新政からの離脱を決定した。
その後、
新田義貞
が後醍醐天皇の命により、鎌倉に向けて出兵するが、尊氏はこれを撃破し、一気に京に上り、京を支配下に置く。
得宗
北条高時
が自刃したことによって、鎌倉幕府は滅亡したが、高時の子時行は落ちのび、のちに諏訪頼重に担がれ
中先代の乱
を起こし、一時鎌倉を占領する。
その後も北畠顕家や
新田義貞
の遺児とともに足利尊氏と戦うが、捕らえられ
龍ノ口
で斬首された。これによって北条
得宗
家が滅亡する。
北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ)
足利尊氏の建武式目(okadoのブログ)
護良親王(大塔宮)の失脚(okadoのブログ)
足利尊氏・直義兄弟と鎌倉(okadoのブログ)
◎大伴神主家墓所
阿弥陀堂の裏には、代々
鶴岡八幡宮
の神主を務めた大伴家の墓塔が並べられている。
大伴家は、初代が鎌倉幕府に神主に任ぜられて以来、25代にわたって神主を務めてきたが、明治の神仏分離によって神主の職を離れた。
浄光明寺の裏山散策
やぐら群
網引地蔵
◎網引地蔵
阿弥陀堂の上は平場となっている。
鎌倉二十四地蔵
の一つに数えられる「網引地蔵」は、その平場の山腹のやぐらに安置されている。
伝説では、
由比ヶ浜
の漁師の網にかかって引き上げられたものだという。
1325年(正中2年)の銘が刻まれている。
参考:
浄光明寺の裏山散策
藤谷黄門遺跡の碑
◎冷泉為相
冷泉為相は、『十六夜日記』で知られる阿仏尼の息子で、『新古今和歌集』の撰者として知られる藤原定家の孫。
為相と異母兄の相続争いで、為相の正当性を訴えるために鎌倉を訪れていた母阿仏尼のあとを慕って鎌倉に下ったとされる。浄光明寺の裏山に為相の墓がある。
(参考:
阿仏尼邸跡
阿仏尼墓
十六夜日記
)
山門前に建てられている石碑には、「藤谷黄門遺跡」と記されている。為相は、藤ヶ谷に住まいし、「藤谷和歌集」を編み、藤谷殿又は藤谷黄門と呼ばれていた。黄門とは中納言の唐名。
どこも苦地蔵と阿仏尼の墓(okadoのブログ)
網引地蔵の上に冷泉為相の墓がある。
安山岩製の宝篋印塔で、徳川光圀が建てたという言い伝えがある。
為相は、藤ヶ谷で多くの歌を詠み、正二位権中納言まで昇進した。1328年(嘉暦3年)、鎌倉で没したという。
為相の墓の先は、通常入ることはできないが、
多宝寺
の覚賢塔に通じている。
参考:
浄光明寺の裏山散策
〜浄光明寺の近くにあった寺〜
◎
多宝寺
1262年(弘長2年)ころに真言律宗の寺として創建されたらしいが詳細は不明。
◎
覚賢塔
多宝寺長老「覚賢」の五輪塔。
高さ約3メートルの巨大な安山岩製の五輪塔で、
極楽寺
の忍性塔にも匹敵するほどの大きさである。覚賢が名僧であったことをしのばせるもので、
多宝寺
がいかに大きな寺であったかを想わせる。
地輪の下方から「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年3月16日入滅」と刻まれた骨臓器が発見されている。
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新清水寺
東林寺跡
法泉寺跡
新清涼寺跡
※
浄光明寺の周辺には、
多宝寺
、
東林寺
など律宗の寺が並び、
海蔵寺
手前の清涼寺ヶ谷には、西大寺流律宗の叡尊が滞在したという
新清涼寺
釈迦堂
があったと伝えられている。
その他、鉄観音の伝説で知られる
新清水寺
や臨済宗の
法泉寺
も浄光明寺付近にあった。
近くには・・・。
鎌倉十井「泉ノ井」
浄光明寺門前の道の奥にある井戸。
今でも清水が湧き出ている(参考:
鎌倉十井
)。
相馬次郎師常墓
奥州征伐で武勲をあげた
相馬次郎師常墓
と伝わる「やぐら」 (参考:
八坂大神
)。
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扇ヶ谷上杉管領屋敷跡
現在、浄光明寺のある谷戸は、「扇ヶ谷」と呼ばれているが、かつては「亀ヶ谷」と呼ばれていた。室町時代に上杉定正がこの地に住み、「扇谷殿」と呼ばれるようになったことから「扇ヶ谷」と呼ばれるようになったという。
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秋の浄光明寺
秋には、
ヒガンバナ
と
ハギ
がきれいに咲く浄光明寺。
武蔵大路の散策
浄光明寺のスイセン
浄光明寺2011/04/30
浄光明寺のハギ
浄光明寺のヒガンバナ
浄光明寺の裏山散策
鎌倉の真言宗の寺
浄光明寺:鎌倉市扇ガ谷2−12−1 0467(22)1359
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