鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その8
東 慶 寺


編集:岡戸事務所
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=駆け込み寺《東慶寺》=
(臨済宗円覚寺派)


円覚寺弁天堂(洪鐘)から見た東慶寺
 東慶寺は「松ヶ岡御所」とも呼ばれ、「駆け込み寺」または「縁切り寺」と呼ばれた尼寺だった。
 江戸時代まで、東慶寺で三年間奉公をすれば離縁できるという「縁切寺法」があったという(五代用堂尼以降は24ヶ月に短縮された。)。
 開山は、八代執権北条時宗の妻で「覚山尼」。「覚山尼」は、無学祖元より受けた法名。
 開基は、子の北条貞時(九代執権)。1285年(弘安8年)の創建。
 後醍醐天皇の皇女「用堂尼」以来栄え、豊臣秀頼の娘(徳川秀忠の娘千姫の養女)である「天秀尼」も住職を務めた。
 墓地には、覚山尼、用堂尼、天秀尼など歴代住職をはじめ、西田幾多郎、安倍能成、岩波茂雄、鈴木大拙など各界の有名人が眠っている。

鎌倉観音巡礼第32番札所(聖観世音)
開山
覚山尼
開基
北条貞時
本尊
釈迦如来




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泰平殿(本堂)
 本尊釈迦如来坐像を安置する。屋根の反りが美しいお堂。
 現在の本堂は昭和10年に建立された。東慶寺の旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されている。
 本堂横の水月堂には、「木造水月観音半跏像」が安置されている。
 毎年6月には、本堂裏の「岩がらみ」が公開されている(参考:イワタバコと岩がらみ


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梵鐘
 梵鐘は、材木座の補陀洛寺から移されたもの。
 1350年(観応元年)の鋳造。鋳物師は物部光連。
 総高143センチメートル、口径77.1センチメートル。『新編相模国風土記稿』によると、農民が土中から掘り出したものと伝えられている。
 もともと東慶寺にあった梵鐘は伊豆韮山(伊豆の国市)の本立寺に移されている。
 参考:東慶寺の鐘楼 除夜の鐘:鎌倉

鎌倉・・・除夜の鐘(okadoのブログ)


◎松ヶ岡宝蔵
 太平寺の本尊であった「聖観音立像」は、寄木造り玉眼入りで、鎌倉地方独特の土紋装飾の施された仏像(国重文)。
 「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」は、キリシタンの遺物でヤソ会のIHSの記号が描かれている(国重文)。
 その他、東慶寺に残されている「縁切文書」などが保管されている。

キリシタンたちの旦那寺〜鎌倉:光照寺〜(okadoのブログ)
土紋が施された聖観音〜東慶寺〜(okadoのブログ)



◎駆け込み寺(縁切り寺)
 「出雲にて結び鎌倉にてほどき」・「くやしくば尋ね来てみよ松ヶ岡」など東慶寺を詠んだ川柳がある。
 東慶寺に駆け込んだ女性は、離婚ができた。しかし、東慶寺に駆け込むということは、別に尼になるということではなかったらしい。
 東慶寺には寺役所があって、逃げ込んできた女性を調べ、夫を呼び出し、裁判が行われて離婚が成立していたようである(協議離婚)。
 ほとんどの夫が東慶寺に出頭する前に、いわゆる「三行半」(みぐだりはん)を書いて持参してきたという。 

〜三行半(みぐだりはん)〜
 今でも「みくだりはん」という言葉が使われているが、これは離縁状のことで、三行半くらいで書かれていたことからそう呼ばれるようになった。昔は女性から離婚することができなかったことから、東慶寺の存在は大きかった。

〜門が開いていなかったら・・・〜
 駆け込んでくる女性の入る門は、時間で開けられていたことから、閉門されているときは、かんざしや下駄を投げ入れれば駆け込んだのと同じ効果が得られたという。

〜夫が三行半を提出しない場合〜
 「縁切寺法」が発動される。この場合、協議離婚とは異なり、寺入りして奉公しなければならなかった。しかし、尼になるということではなく、三年間の修行を積んで寺を出て行くといったものであったらしい。その費用は夫が持った。夫に金がない場合は名主が払ったという。



◎墓地
 開山覚山尼、五世用堂尼、二十世天秀尼などの歴代住職の墓のほか、哲学者の西田幾多郎、和辻哲郎、作家高見順、岩波書店創業者岩波茂雄らの墓がある。


覚山尼墓

用堂尼墓

天秀尼墓

 東慶寺の歴代住職は、名門の出が多い。
 五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女。このときから松ヶ岡御所と称されたという。
 二十世の天秀尼は、豊臣秀頼の子で千姫の養女。千姫は徳川秀忠の娘で家康の孫にあたる。大坂城落城後、東慶寺に入った。



◎前田青邨の筆塚
 墓地の一角にある層塔は、前田青邨の筆塚。
 日本画家で文化勲章受章者。円覚寺仏殿の「白龍の図」は前田青邨監修、守屋多々志揮毫。



鎌倉は、地方独特の彫刻美術を産み出した。
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≪東慶寺の仏像≫

◎木造聖観世音菩薩像
 鎌倉地方独特の「土紋装飾」が施された仏像。
 鎌倉尼五山第一位の太平寺に安置されていたもので、太平寺の住職だった青岳尼が里見義弘とともに安房に渡った際、この観音像も持ち去って行ったが(1556年(弘治2年))、のちに、青岳尼の妹で東慶寺の旭山尼によって鎌倉に戻されたとされている。青岳尼と旭山尼は、小弓公方と呼ばれた足利義明の娘(参考:里見氏の鎌倉来襲)。
 現在は松ヶ岡宝蔵に保管されている。
 鎌倉観音巡礼第32番札所。

土紋が施された聖観音〜東慶寺〜(okadoのブログ)

◎木造水月観世音菩薩半跏像
 鎌倉地方独特の彫刻で、白衣をまとい岩坐の上にゆるやかに、やや斜めに腰をかけ、水に映る月を眺めているので水月観音と呼ばれている(通常は水月堂に安置されている。)。

水面に映る月を眺める水月観音・・・東慶寺(okadoのブログ)





◎釈宗演
 円覚寺派管長を務め、明治36年、シカゴで開かれた万国宗教大会で禅(ZEN)についての講演を行い、欧米に禅を紹介した。東慶寺は、明治35年に縁切寺法が廃された後、宗演によって中興された。宗演は、建長寺派管長も併任している。明治27年には夏目漱石も参禅するなど多くの信奉者がいた。
 (参考:釈宗演に参禅した夏目漱石(okadoのブログ)


松ヶ岡文庫入口
◎鈴木大拙
 仏教学者の鈴木大拙は、釈宗演の弟子となり欧米に禅(ZEN)を広めるために活躍し、東慶寺内に自ら創設した松ヶ岡文庫で研究活動を行っていた(円覚寺塔頭正伝庵に住まいしていた。)。
 釈宗演より「大拙」の号を受けている。

◎夏目漱石参禅100年記念碑
 明治27年、作家夏目漱石は、円覚寺の塔頭帰源院に止宿し、釈宗演に参禅した。そのときのことは『門』に描かれている。



☆東慶寺の規則違反で大名を罰した天秀尼☆
 天秀尼が住職を務めていたとき、会津若松藩四十万石の城主加藤明成の家来であった堀主水は、城主の非を幕府に訴えるため妻とともに会津を出奔した。
 しかし、幕府に訴える前に明成に追われ、主水は高野山に逃げ、妻は東慶寺に逃げ込んだ(高野山は女人禁制のため)。
 高野山から主水の引渡しを受けこれを斬殺した明成は、次に東慶寺に対し主水の妻の引渡しを迫った。
 これに怒った天秀尼は、養母千姫を通じ江戸幕府三代将軍家光に訴え、明成の四十万石を没収させたという。

露坐の釈迦牟尼



東慶寺は、花の寺として人気の寺。



彼岸桜

ハクモクレン

ハナショウブ
 東慶寺のハナショウブ田は、鎌倉でも有数規模のもの。
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イワタバコ
 寺院裏の岩肌などに星の形をした紫色の花を咲かせる。
 東慶寺の墓地に向かう途中の岩肌には、無数のイワタバコが咲き誇る。
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岩がらみ
 毎年6月上旬頃に本堂(泰平殿)裏の「岩がらみ」が公開される。
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鎌倉:梅の名所
岩がらみ〜鎌倉:東慶寺
イワタバコと岩がらみ
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