鎌倉手帳(寺社散策)
鎌倉寺社巡り その9
満 福 寺
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岡戸事務所
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=義経・弁慶ゆかりの寺《満福寺》=
(真言宗大覚寺派)
腰越の満福寺は、
源義経
が兄
頼朝
の許しを得るための
「腰越状」
を書いた寺。
結局、許しを得られなかった
義経
は京に戻るが、
頼朝
との仲はさらに悪化し、義経捕縛命令が出される。
義経
は逃亡の果てに奥州藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、
頼朝
を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した(1189年(文治5年)4月30日)。
毎年4月第3土曜日には
「義経まつり」
が開かれる。
開山
行基
源義経(年表)
伝説!弁慶腰掛の松
本尊
薬師三尊
除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜
満福寺は、聖武天皇の命によって疫病追放を命じられた行基が草庵を結んだのがその始まりだと伝えられている。
しかし、この寺を有名にしているのは、鎌倉に入ることができない
義経
がしばらく滞在したということ。そういった意味から「弁慶寺」とも呼ばれていた。
「判官贔屓(はんがんびいき)という言葉を生んだ悲運の英雄義経の人気は未だ衰えず、
「鎌倉まつり」
に併せて行われる
「義経まつり」
には多くの観光客も訪れ賑わう。
弁慶の腰掛石
弁慶の手玉石
1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした
源義経
は、平家の大将平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄
頼朝
に鎌倉に入ることを許されなかった。
義経
は腰越の満福寺に留まり、
大江広元
を通じて
頼朝
の許しを得ようとするが、許されることはなく再び京へ戻ることになる。
有名な
「腰越状」
は、その時に書かれたもの。
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腰越と義経ゆかりの満福寺
☆伝説!鳴かなくなった満福寺のコウロギ☆
頼朝
の許しを得るべく、弁慶が
腰越状
の下書きをするために墨をすっていると、池のほとりでコウロギが鳴いていた。弁慶が「やめよ」と一喝すると静まったといわれる。以来、満福寺のコウロギは鳴かないそうである。
義経と弁慶
義経手洗い井戸
行基菩薩御加持瑠璃光水
〜腰越状の下書き〜
満福寺には、弁慶の筆跡とされる
「腰越状」
の下書きと伝えられるものがある。
弁慶が書いた書状に、
義経
自らが筆をとって「敵のために命を亡はんことを顧みず」という文字を付け加えたため、下書きとして残されたものだといわれている。
源義経の腰越状〜頼朝と義経の対立:満福寺〜
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腰越と義経ゆかりの満福寺
義経を祀る白旗神社
(藤沢市)
1189年(文治5年)6月13日、奥州で打たれた義経の首は、腰越の浜に運ばれ、
和田義盛
と
梶原景時
による首実検が行われた後、藤沢の
白旗神社
に葬られたと伝えられている。
★
詳しくは写真をクリック
〜
源義経の伝説を巡る旅
〜
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(鶴岡八幡宮)
義経を祀る白旗神社
(藤沢市)
義経首洗井戸
(藤沢市)
義経の位牌を安置する荘厳寺
(藤沢市)
弁慶塚のある常光寺
(藤沢市)
弁慶塚
(茅ヶ崎市)
〜義経の鎌倉入りを阻止するための関所〜
(
金洗沢
)
頼朝
は、
義経
の鎌倉入りを阻止するため、この辺りに関所を設けたという。
腰越(小動岬〜龍口寺)
鎌倉の真言宗の寺
満福寺:鎌倉市腰越2−4−8 0467(31)3612
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