鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その10
久 成 寺


編集:岡戸事務所
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=徳川家康ゆかりの寺《久成寺》=
(日蓮宗)

 久成寺は、もと身延山久遠寺末。
 1520年(永正17年)、足利十一代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長が宅地を寄進して創建した。
 徳川家康が小田原攻めの際に立ち寄って祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたといわれ、鷹狩りの折には「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたという。
 寺には、「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた徳川五代将軍綱吉の朱印状が残されている。
 境内には、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる長尾定景一族の墓がある。定景は長尾景虎(上杉謙信)の祖先にあたるという。

開山 日舜
開基 梅田尾張守秀長
本尊 曼荼羅本尊

久成寺のツツジ(okadoのブログ)  松平甚之助新兵衛内室の墓(okadoのブログ)




長尾定景一族墓
◎長尾定景
 長尾景定は、のちに越後の虎と呼ばれた上杉謙信の祖先にあたるといわれている。
 謙信は、1561年(永禄4年)、鶴岡八幡宮で、上杉憲政から上杉家から関東管領職を相続して上杉を名乗った。
 現在、久成寺にある一族の墓は、戸塚区長尾台の陣場跡から移されたものだという(参考:長尾城址 長尾定景一族の墓(okadoのブログ))。 

〜板東平氏〜
 定景は鎌倉権五郎景政(参考:御霊神社)を祖としている。鎌倉に接する横浜市戸塚区がその拠点であった(参考:長尾城址)。

〜石橋山の戦い〜
 源頼朝の挙兵時には大庭景親につき、石橋山の戦いでは岡崎義実の子佐奈田与一義忠を討ち取った。定景は景色とは従兄弟色。
 形勢が逆転し頼朝が鎌倉に入ると大庭景親とともに捕らえられ、景親は殺されるが定景は三浦義澄に預けられたのち岡崎義実に引き渡され、定景の命は、義実に預けられた形となった。
 しかし、義実は、毎日、法華経を唱えている定景をみて息子を殺した罪を許し、頼朝に助命を願い、頼朝もこれを聞き入れたといわれている。

〜公暁を討った武将〜
 定景は三浦氏の家臣となり、三代将軍源実朝暗殺事件では、三浦義村の命により実朝を手にかけた公暁を討ち取った(参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡) 実朝の暗殺)。

源実朝の木製五輪塔(okadoのブログ)

〜長尾氏の滅亡〜
 1247年(宝治元年)に起こった宝治合戦で、子の景茂が三浦泰村に味方したため、三浦氏ととも長尾氏も滅んだ。

〜ふあん坂〜
 久成寺の東から玉縄城址へと上る坂は「ふあん坂」と呼ばれている。
 S字に大きく曲がった急斜面を上がる坂は、玉縄城の防御施設としての重要な働きを果たした。
 「ふあん坂」を上り、玉縄城址から「七曲坂」を下りれば龍寳寺(参考:玉縄城址の七曲坂〜鎌倉の古道〜)。




法華経を読み続けた長尾定景〜石橋山の戦い〜(okadoのブログ)




戦国時代の名城「玉縄城址」周辺を散策


鎌倉の日蓮宗の寺








久成寺:鎌倉市植木494  0467(46)2837

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