鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その10
龍 寳 寺


編集:岡戸事務所
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=玉縄北条氏の菩提寺《龍寳寺》=
(曹洞宗)

 龍寳寺は、1503年(文亀3年)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とする寺で、1575年(天正3年)、北条氏勝が現在地に移し、「龍寳寺」と称するようになった。

 七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。

 現在の本堂は、1960年(昭和35年)の再建。
 茅葺きの山門は、元禄年間(1688〜1704年)に建てられたものという。

 境内には「新井白石の碑」や「旧石井家の住居」がある。
 龍寳寺のある植木は、新井白石の知行地となっていた時代がある。


寒さくら
開山 泰絮宗栄
開基 北条綱成
本尊 宝冠釈迦如来

除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜



◎旧石井家住宅
 関谷で名主を務めた石井家を移築した。
 江戸時代中期のものと伝えられ、戸口や窓の少ない閉鎖的なもので、当時の神奈川県の民家の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
 併設する民俗資料館には農機具等の資料が展示されている。
 参考:旧石井家住宅(okadoのブログ)

◎新井白石碑
 享保11年(1726年)に建てられた碑。碑文は室鳩巣の撰文といわれるが、風化によって読めない。
 新井白石がこの辺りを支配していたころ、朝鮮使節が龍寳寺を宿舎としたこともあった。白石は使節を藤沢の宿まで出迎えたという。
 参考:新井白石の碑(okadoのブログ)

◎金比羅宮
 大船が沼地だったころ、水路の安全を祈願する金比羅宮が龍寳寺の西側の山に建てられていた。台風で倒壊した後は再建されず、龍寳寺の境内の片隅に、小さなお堂が残されるのみとなった。

◎北条三代の墓
 裏山に玉縄城主北条綱成、氏繁、氏勝の墓といわれる石塔が並んでいる。起してもすぐに倒れてしまうので「ぶっけり仏」と呼ばれていたようである。
 龍寳寺は、氏勝によって氏繁の菩提を弔うために建立され、氏繁の戒名を寺名としている。玉縄北条氏三代の菩提所として栄え、三名の位牌も安置されている。
 参考:ぶっけり石〜玉縄城主三代の墓〜(okadoのブログ)

◎子育地蔵
 山門を入ってすぐ右の地蔵堂には、かつては、藤沢への街道沿いの「白坂」(しらさか)という坂の上にあったという地蔵像が祀られている。
 このお地蔵さまは、子がない者が願をかければ子を授かり、親が願をかければ子が健康に育つといわれてきた。
 しかし、道路拡張にともない龍寳寺に移されたという。久成寺門前の坂がその白坂かと思われる(「ふあん坂」を下った辺りの道)。  




〜玉縄学校〜
 1877年(明治10年)、玉縄学校(現在の玉縄小学校)が貞宗寺から龍寳寺へ移された。



◎黄八幡
 開基の北条綱成は、北条早雲の長男氏康の養子。いつも黄色の練絹に「八幡大菩薩」と書いた旗を背にしていたことから、「黄八幡」と呼ばれた。

◎玉縄開城
 玉縄城最後の城主氏勝は、龍寳寺住職の説得により、徳川家康に城を明け渡すことを決意したと伝えられる。

◎七騎谷
 源実朝が公暁に暗殺され、その首をもって逃げた七騎の侍が龍寳寺付近に隠れたということから、この付近の谷は、「七騎谷」(ななきやと)と呼ばれていた。
 参考:源実朝の首と七騎谷の伝説(okadoのブログ)

七曲坂
 玉縄城の大手門への道。現在もその面影を残した道が残されている(参考:七曲坂)。
 七曲坂を上り、城宿辺りから「ふあん坂」を下れば久成寺の横に出る。



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龍寳寺:鎌倉市植木129  0467(46)2807

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