鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その10
洲崎古戦場跡


編集:岡戸事務所
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洲崎古戦場碑
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。
 義貞は堀口貞満と大島守之を州崎口に攻め込ませ、これを十六代執権赤橋(北条)守時が迎え撃った。
 鎌倉に進撃しようとする義貞は、軍勢を三方に分け、洲崎(現在の寺分・梶原・山崎一帯)、仮粧坂極楽寺切通へ向けた。
 洲崎口では、5月18日の朝方より合戦が始まり、『太平記』によると一日一夜の間に六十五度の合戦があったという。北条軍は敗れ、守時はじめ90人以上が自刃したという(山崎合戦)。
 北条軍を撃破した新田軍は山ノ内へと雪崩れ込んだ。
 洲崎での戦いは新田軍が大仏切通を目前にしての激戦だったとも伝えられている。


 赤橋守時は、六代執権北条長時を祖とする赤橋流北条氏。屋敷が鶴岡八幡宮の赤橋(現在の太鼓橋)付近にあったことから「赤橋」と名乗ったいう。守時は、1326年(正中3年)の嘉暦の騒動後に執権となった。
 十六代執権といっても実権は得宗家にあり、北条高時内管領長崎高資に握られていた。
 守時の妹登子は、足利尊氏の妻。尊氏は5月7日に京六波羅を陥落させていることから、守時の幕府における立場は悪くなっていた。そのため、南条高直らに「巨福呂坂へ退き、援軍を頼んだ方が良い」と進言されたが潔い死を選んだという。
 守時らが自刃した場所は千代塚であったとされているが、その場所は定かではない(陣出の泣塔が供養塔であるともいわれている。)。
 等覚寺には北条一族の供養塔がある。

鎌倉幕府最後の執権〜赤橋(北条)守時〜(okadoのブログ)


〜幕府滅亡〜
 聖福寺に陣を布いていたとされる新田義貞は、5月22日、稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った。これにより北条高時ら一族が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅んだ。


東勝寺跡

鎌倉炎上〜新田義貞の鎌倉攻め〜(okadoのブログ)


鎌倉幕府滅亡の古戦場〜山崎と上町屋の散策〜



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