鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉寺社巡り その10
玉縄城址


編集:岡戸事務所
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玉縄城址(玉縄民俗資料館模型)
 1512年(永正9年)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。
 1526年(大永6年)の安房の里見実堯の攻撃も(里見氏の鎌倉来襲 玉縄首塚)、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃も撃退した。
 代々の城主は、氏時、綱成、氏繁、氏勝。
 しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。
 その後、本多正信が城主となったが、1619年(元和5年)に廃城となった。


〜北条早雲〜
 戦国武将で、本当の名は伊勢盛時という。
 早雲は、1493年(明応2年)、堀越公方足利政知の子茶々丸を攻撃し、伊豆を奪い取った(伊豆討入り 参考:堀越御所跡 願成就院)。韮山城を居城とし、1495年(明応4年)には小田原城を奪い取った。
 その後、相模に進出し、1510年(永正7年)、鎌倉には住吉城を築いたが、三浦道寸(義同)によって落されてしまう。そして、早雲を退かせた道寸は岡崎城に入った。
 体制を立て直した早雲は、1512年(永正9年)、道寸の岡崎城を攻め、さらに住吉城を攻めて道寸を三浦の新井城に敗走させた。これにより相模の支配権を手に入れた。
 そして、新井城の三浦道寸攻略のため、玉縄城が築かれた。
 ※参考:伊勢盛時がその存命中に「北条早雲」と名乗ったことはない。早雲の死後、二代目となる氏綱が「北条氏」を名乗ってからのこと。


〜天然の要害〜

七曲坂

ふあん坂
 玉縄城址は、開発が進んで当時の面影を残すものは少ない中で、龍寳寺からの「七曲坂」と、久成寺からの「ふあん坂」には、当時の面影がよく残されている。




〜戦いの跡〜

《三浦道寸対北条早雲》

三浦道寸墓(三浦市油壺)

海前寺の首塚
 逗子の海前寺の首塚は、三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬った場所とされる。

延命寺の三浦道香主従の墓
 逗子の延命寺では、三浦道寸と北条早雲との戦いで道寸の弟道香が自刃したと伝えられている。

《北条氏時対里見実堯》
 1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ際、これを迎え撃ったのが玉縄城の初代城主北条氏時(参考:里見氏の鎌倉来襲)。
 このときの戦死者を葬ったのが玉縄首塚といわれている。
 毎年8月19日には戦死者を供養する「玉縄首塚まつり」が行われている。



玉縄城大手門模型(玉縄民俗資料館)
 龍寳寺にある玉縄民俗資料館では、出土品や昔の農耕具などが展示されている。



戦国時代の名城「玉縄城址」周辺を散策  玉縄城址の七曲坂〜鎌倉の古道〜





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