鎌倉手帳(寺社散策)

小田原城 北條五代祭り



玉 縄 城 址
北条早雲の城

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







玉縄城址
玉縄城址
(玉縄ふるさと館(歴史民俗資料館)模型)


 玉縄城は、1512年(永正9年)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。

 1526年(大永6年)の安房の里見実堯の攻撃も、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。

 代々の城主は、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝。

 しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。

 その後、本多正信が城主となったが、1619年(元和5年)に廃城となった。





〜玉縄北条氏〜

初代:氏時
北条早雲の次男。北条氏綱の弟。1526年(大永6年)に里見実堯が鎌倉に攻め込んだ際は戸部川付近で迎撃した。

二代:為昌
北条氏綱の三男。正式には為昌以降の家系を玉縄北条氏というらしい。

三代:綱成
北条氏の家臣で父は今川氏の家臣福島正成とされる。
北条氏綱に気に入られて「北条」を名乗る。二代為昌の後見役を命じられ、為昌の死後、為昌の養子として玉縄城主となる。
いつも黄色の練絹に「八幡大菩薩」と書いた旗を背にしていたことから、「黄八幡」と呼ばれ、河越夜戦、川中島の戦い、国府台合戦などで活躍した。
北条氏康の死とともに隠居している。

四代:氏繁
三代綱成の嫡男。妻は北条氏康の娘七曲殿。
上杉謙信武田信玄の攻撃を守り抜いた。父綱成の隠居に伴い家督を継いだが、父よりも先に病死している。

五代:氏舜
四代氏繁の嫡男。

六代:氏勝
四代氏繁の次男。兄氏舜の死によって家督を継いだと考えられている。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、玉縄城を無血開城した。



北条早雲
北条早雲

 戦国武将で、本当の名は伊勢盛時という。

 早雲は、今川家の相続争いをまとめ、1487年(長享元年)に駿河国の興国寺城を与えられ、1491年(延徳3年)には堀越公方足利政知の子茶々丸を攻撃し、伊豆国を奪い取った(「伊豆討入り」 参考:堀越御所跡 願成就院)。


興国寺城址
興国寺城
伊豆韮山城址
韮山城址


 伊豆国の韮山城を居城とした早雲は、1495年(明応4年)には小田原城を奪い取り、相模国に進出。

 1510年(永正7年)、鎌倉には住吉城を築いたが、三浦道寸(義同)によって落されてしまう。
 早雲を退かせた道寸は岡崎城に入った。

 態勢を立て直した早雲は、1512年(永正9年)、道寸の岡崎城を攻め、さらに住吉城を攻めて道寸を三浦の新井城に敗走させた。

 これにより相模の支配権を手に入れた。
 そして、新井城の三浦道寸攻略のため、玉縄城が築かれた。


伊勢盛時がその存命中に「北条早雲」と名乗ったことはない。
早雲の死後、二代目となる氏綱が「北条氏」を名乗ってからのこと。







〜天然の要害〜

七曲坂
七曲坂
ふあん坂
ふあん坂


 玉縄城址は、開発が進んで当時の面影を残すものは少ない中で、龍寳寺からの「七曲坂」と、久成寺からの「ふあん坂」には、当時の面影がよく残されている。

 「諏訪壇」には、かつて、北条早雲によって勧請された諏訪神社が置かれていた。


玉縄城址太鼓楼跡
太鼓楼跡
玉縄城址諏訪壇
諏訪壇
諏訪神社


 「諏訪壇」には、かつて、北条早雲によって勧請された諏訪神社が置かれていた。



二伝寺
二伝寺砦

 藤沢市渡内の二伝寺がある地は、かつては玉縄城の尾根の続きで、一番高い場所だった。

 砦の役割を担うため氏時によって創建されたのが二伝寺だという。



〜戦いの跡〜

《三浦道寸対北条早雲》

逗子海前寺
海前寺
(逗子市)
逗子延命寺
延命寺
(逗子市)

 逗子の海前寺の首塚は、三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬った場所とされる。
 延命寺では道寸の弟道香が自刃したと伝えられている。


新井城址
三浦道寸墓
(三浦市油壺)

 1516年(永正13年)、北条早雲に攻められた三浦道寸は新井城で自刃した。


《北条氏時対里見実堯》

玉縄首塚
玉縄首塚

 1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ際、これを迎え撃ったのが玉縄城の初代城主北条氏時(参考:里見氏の鎌倉来襲)。

 このときの戦死者を葬ったのが玉縄首塚といわれている。
 毎年8月には、戦死者を供養する「玉縄首塚まつり」が行われている。





《玉縄落城と北条氏勝》

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原征伐を開始。

 北条氏勝は、,小田原城の支城で伊豆国の山中城に籠もって戦ったが落城。

 山中城を脱出した氏勝は玉縄城に戻り籠城。

 玉縄城は徳川家康によって包囲されるが、家康の重臣本多忠勝が龍寶寺の僧了達を通じて氏勝を説得した結果、氏勝は4月21日に城を開いたと伝えられている。

 その後、氏勝は家康に仕えて下総岩富1万石の領主となり、関ヶ原の戦いにも参陣している。

 1611年(慶長16年)死去(53歳)。


 氏勝の説得にあたったのは大長寺の僧暁誉源栄であったという説もある。

 玉縄落城後、7月には小田原城が無血開城し、後北条氏(小田原北条氏)は滅亡。四代氏政切腹、五代氏直は高野山に謹慎後、翌年11月に病死した。




戦国時代の名城「玉縄城址」周辺を散策

玉縄城址の七曲坂〜鎌倉の古道〜

玉縄城址探索ウオーク(玉縄城築城500年)2012/10/28

北条早雲と鎌倉






玉縄城址
玉縄城大手門模型
(玉縄ふるさと館)

 龍寳寺にある「玉縄ふるさと館」(歴史民俗資料館)では、出土品や昔の農耕具などが展示されている。


鎌倉市玉縄地域城廻

大船駅西口より徒歩25分



玉縄城址MAP
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