その内容は・・・
| ○ |
花園天皇から大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位すること。 |
| ○ |
在位年数を10年として両統が交替で皇位に就くこと。 |
| ○ |
皇太子は邦良親王(大覚寺統)とし、その次を量仁親王(光厳天皇)とすること。 |
翌年、この約束のとおり後醍醐天皇が即位するが、後醍醐天皇は量仁親王に譲位することをしなかった。そして、後醍醐天皇が「元弘の変」で隠岐に流されている間に、光厳天皇が即位することになる。
(※ 後醍醐天皇の次は邦良親王のはずであったが病死したため、急遽量仁親王が皇太子となった。)
以後、後醍醐天皇の大覚寺統を南朝、光厳天皇の持明院統を北朝と呼ぶようになり、1392年(明徳3年・元中9年)、南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に三種の神器が譲られるまで、南北朝の対立が続くこととなる。 |
〜足利尊氏〜
後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は、1335年(建武2年)に起こった中先代の乱を機に、後醍醐天皇を裏切り、持明院統の光厳天皇を奉じて入京し、翌年には建武式目を制定して室町幕府を開いている。
このとき、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開いた。これによって南北の朝廷が成立したことになる。
1338年(暦応元年・延元3年)、足利尊氏は北朝の光明天皇より征夷大将軍に任じられている。 |
足利尊氏の建武式目(okadoのブログ)
〜足利義満〜
| 1392年(明徳3年・元中9年)、室町幕府三代将軍足利義満が南朝の後亀山天皇に和平案を提示したことにより、南朝の消滅という形での南北朝の合一が実現した。 |
|
|
|