鎌倉手帳(寺社散策)


文保の和談
大覚寺統と持明院統の対立


編集:岡戸事務所
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〜持明院統と大覚寺統〜
 後嵯峨天皇は、1246年(寛元4年)、久仁親王(後深草天皇)に譲位したが、1259年(正元元年)には、後深草天皇の弟恒仁親王(亀山天皇)へ譲位させた。
 さらに、亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子として崩御してしまう。

後嵯峨天皇 @後深草天皇
A亀山天皇 B世仁親王
(後宇多天皇)

 このため、亀山天皇以後の皇位は、後宇多天皇(大覚寺統)→伏見天皇(持明院統)→後伏見天皇(持明院統)→後二条天皇(大覚寺統)→花園天皇(持明院統)と継承されていった。
 (※後深草天皇の子孫を持明院統、亀山天皇の子孫を大覚寺統と呼ぶ。)


院政を行うためには・・・
 上皇が院政を行うには、その上皇が、在位している天皇の直系尊属である必要があるため、基本としては、持明院統と大覚寺統が二代ずつ交替で皇位に就く必要がある。
 直系尊属とは、父、祖父、曾祖父のこと。



〜文保の和談〜
 1317年(文保元年)、伏見法皇が崩御すると、持明院統と大覚寺統との間で皇位継承に関する対立が激しくなり、後宇多法皇の要請によって、幕府は今後の皇位継承についての仲裁を行った。これが「文保の和談」と呼ばれている。


その内容は・・・

花園天皇から大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位すること。
在位年数を10年として両統が交替で皇位に就くこと。
皇太子は邦良親王(大覚寺統)とし、その次を量仁親王(光厳天皇)とすること。

 翌年、この約束のとおり後醍醐天皇が即位するが、後醍醐天皇は量仁親王に譲位することをしなかった。そして、後醍醐天皇が「元弘の変」で隠岐に流されている間に、光厳天皇が即位することになる。
 (※ 後醍醐天皇の次は邦良親王のはずであったが病死したため、急遽量仁親王が皇太子となった。)
 以後、後醍醐天皇の大覚寺統を南朝、光厳天皇の持明院統を北朝と呼ぶようになり、1392年(明徳3年・元中9年)、南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に三種の神器が譲られるまで、南北朝の対立が続くこととなる。



足利尊氏
 後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は、1335年(建武2年)に起こった中先代の乱を機に、後醍醐天皇を裏切り、持明院統の光厳天皇を奉じて入京し、翌年には建武式目を制定して室町幕府を開いている。
 このとき、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開いた。これによって南北の朝廷が成立したことになる。
 1338年(暦応元年・延元3年)、足利尊氏は北朝の光明天皇より征夷大将軍に任じられている。

足利尊氏の建武式目(okadoのブログ)

〜足利義満〜
 1392年(明徳3年・元中9年)、室町幕府三代将軍足利義満が南朝の後亀山天皇に和平案を提示したことにより、南朝の消滅という形での南北朝の合一が実現した。

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