鎌倉手帳(寺社散策)

源頼家の墓
〜伊豆:修善寺〜

岡戸秀仁
編集:岡戸秀仁







源頼家の墓


 伊豆修善寺にある源頼家の墓。

 1203年(建仁3年)、北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。

 頼家の冥福を祈るために、母の北条政子が建てたという指月殿の横にある。



〜源頼家〜

 源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。

 母は北条政子

 1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。

 『吾妻鏡』によれば・・・

 1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。

 この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。

 側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家は比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたという。

 しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。

 9月2日、比企能員は北条時政邸で暗殺され、比企邸も襲撃され比企一族は滅亡させられた(比企の乱)。

 頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。

 この時、危篤状態だったという頼家は、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。

 9月29日には、伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。

 ※7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたと伝えられている。



十三士の墓
十三士の墓



 源頼家の墓の前には、頼家の家臣十三士の墓が置かれている。

 源頼家墓背後の鹿山には、頼家の叔父にあたる「源義経の像」がある。







源頼家の墓 源頼家の墓



人穴富士講遺跡
(世界文化遺産)

 1203年(建仁3年)6月、頼家は富士の人穴仁田忠常に探索させた。
 翌7月には病となり、9月には修禅寺に幽閉されている。









修禅寺
修禅寺

 「修善寺」という地名は、弘法大師によって開創された修禅寺をその由来としている。


静岡県伊豆市修善寺964

伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」より
修善寺温泉行バス。
「修善寺温泉」下車



修禅寺歴史めぐりMAP
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源頼朝の配流地
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