鎌倉手帳(寺社散策)

由比ヶ浜
〜鎌倉の海〜

岡戸事務所
編集:岡戸秀仁







由比ヶ浜


 鎌倉時代には、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜。

 稲村ヶ崎から飯島岬(参考:和賀江島)までの海岸の総称だが、現在では、稲瀬川河口から滑川河口までの間を「由比ヶ浜」と呼んでいる。

 「由比」の名は、共同作業を意味する「ユイ」が語源とされている。


〜万葉集の東歌〜

「ま愛しみさ寝にわは行くかまくらの美奈能瀬河に潮満つなむか」

「美奈能瀬河」が稲瀬川のことだといわれている。


稲瀬川の碑
リンクボタン稲瀬川碑
(国道134号線沿い)


リンクボタン童謡・唱歌「鎌倉」に歌われた浜



〜鎌倉時代の由比ヶ浜〜

 鎌倉時代の由比ヶ浜は、流鏑馬・小笠縣(こがさがけ)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸の修練場でもあった。

 源頼朝が放生会を行い、源実朝が渡宋を願って陳和卿に船を造らせた。

 伊豆・箱根の二所詣の際には、沐浴で身を清める「二所精進」が行われたのも由比ヶ浜だった。


〜由比ヶ浜と合戦の歴史〜

リンクボタン小坪・衣笠合戦

 1180年(治承4年)、源頼朝挙兵に従うため衣笠城を出発した三浦軍は、折からの雨で石橋山の戦いに間に合わなかった。

 その帰路、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇し、合戦となってしまう。

 この合戦がきっかけで衣笠城が攻められ、三浦大介義明が討死する。


三浦義明墓
リンクボタン三浦義明墓
(来迎寺)


リンクボタン畠山重忠の乱

 1205年(元久2年)、北条時政の策謀によって、畠山重忠の嫡男重保が三浦義村に討たれた。


畠山重保墓
リンクボタン畠山重保墓


リンクボタン和 田 合 戦

 1213年(建暦3年)、北条義時に挑発された和田義盛が挙兵し、由比ヶ浜で最期を遂げた。


和田塚
リンクボタン和田塚



〜静御前と由比ヶ浜〜

 1186年(文治元年)、源義経の愛妾静御前は、鶴岡八幡宮で舞を披露した。その後、義経の子を産んだが、男の子であったため、由比ヶ浜に捨てられた。


静の舞
リンクボタン静の舞







〜海の銀座〜
(鎌倉の海水浴場)

 鎌倉の海、特に由比ヶ浜の海は、明治17年、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」とされて称されて以来、「海の銀座」といわれるほどの賑わいをみせている。

 「鎌倉花火大会」は夏の風物詩。


夏の由比ヶ浜
リンクボタン夏の由比ヶ浜
(鎌倉の3つの海水浴場)


海水浴場開場100年碑
リンクボタン海水浴場開場
100年碑
長与専斎碑
リンクボタン長与専斎碑
(高徳院(鎌倉大仏))

 長与専斎は、内務省衛生局の初代局長を務め、明治20年、由比ヶ浜の松林にサナトリウム「海浜院」を開設した(1945年(昭和20年)に焼失)。


〜夏目漱石『こゝろ』〜

夏目漱石『こころ』

 夏目漱石は『こころ』の中で夏の由比ヶ浜の賑わいをこう描いている。

 「古いくすぶり返った藁葺の間を通り抜けて磯へおりると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。

 ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。

 そのなかに知った人を一人ももたない私も、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たして、そこいらをはね回るのは愉快であった。」







鎌倉海浜公園由比ガ浜
リンクボタン鎌倉海浜公園
(由比ガ浜地区)


タンコロ
リンクボタンタンコロ
鎌倉海浜院・鎌倉海浜ホテル跡
リンクボタン鎌倉海浜院



ビーチフェスタ
リンクボタンビーチフェスタ
(5月)
海開き
リンクボタン海開き
(7月上旬)


鎌倉海水浴場の愛称はそのまま・・・(okadoのブログ)

2014鎌倉・江の島の海開き(okadoのブログ)



ハマヒルガオ
リンクボタンハマヒルガオ
ハマダイコン
リンクボタンハマダイコン


さくら貝の碑
リンクボタン「さくら貝の歌」の碑



鶴岡八幡宮大鳥居
リンクボタン鶴岡八幡宮大鳥居

 昔は、この鳥居の前から砂浜だったため、由比ヶ浜の砂丘と呼ばれていた。


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鎌倉の海
リンクボタン鎌倉の海

由比ヶ浜、材木座、坂ノ下、七里ヶ浜、腰越の5つの海岸。







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