=伊東祐親の娘八重姫との恋=
伊東祐親は、伊豆の豪族で頼朝の監視役だったといわれています。
しかし、四女の八重姫と頼朝は、祐親が京に上っている間に結ばれ、一子千鶴丸をもうけてしまいました。
祐親は大いに怒り、千鶴丸を川に捨て、頼朝も殺そうとしますが、祐親の次男祐清からその事を聞いた頼朝は、走湯権現に逃げ、北条時政に匿ってもらったといわれています。 |
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頼朝に重大事を知らせた伊東祐清は、頼朝の乳母比企尼の三女を妻としていました。 |

八重姫の御堂
伊豆韮山:真珠院 |
その後、八重姫は江間小四郎と結婚させられますが、すぐに伊東の館に戻ります。そして頼朝を慕って北条館を訪ねるのですが、頼朝は時政の娘北条政子と結ばれていました。
悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたと伝えられています。韮山の真珠院には八重姫を祀る御堂があります。 |
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八重姫が結婚させられた江間小四郎は、北条義時の通称と同じですが別人です。 |
=北条政子との結婚=
八重姫との恋に破れた頼朝は、北条時政の長女政子と通ずるようになります。
いつ結婚したのかは不明ですが、長女大姫が1178年(治承2年)頃に生まれていると考えられるので、その少し前ということになるのでしょう。
伝えられている話の中には、「時政は娘の結婚に反対して、目代山木兼隆に嫁がせようとした」いうものもあるようですが、兼隆は、1179年(治承3年)に犯罪人として伊豆に流されてきた人物で、目代となったのは1180年(治承4年)のことです。
したがって、兼隆と政子の結婚という事実はなかったものと考えられます。 |
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当時伊豆の知行国主は、源頼政、子仲綱と引き継がれたいたようです。
しかし、頼政が以仁王とともに平氏打倒の挙兵をしたために免ぜられ、代わって、平時忠が国主に任ぜられ、目代に山木兼隆が就任しました。 |
=源氏再興の挙兵=
1179年(治承3年)、京都では平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、安徳天皇が皇位に就きました。
翌1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子以仁王は、皇位継承の望みを絶たれたことから、平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。
頼朝のところには、叔父の源行家によって届けられています。 |
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令旨を発した以仁王も源頼政とともに挙兵しましたが、平氏軍に追われ平等院で最期を遂げました。 |
頼朝は、当初、様子を見守っていたようですが、平氏による源氏追討の動きが大きくなってきたことから挙兵を決意し、まずは、目代の山木兼隆を襲撃することにします(参考:香山寺)。
1180年(治承4年)8月17日、頼朝は、北条時政の協力を得て挙兵し、山木兼隆を討ち取り、相模に進軍しましたが、「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親らに敗れてしまいます。
敗れた頼朝は山中に逃れ、8月28日に真鶴岬から海路安房へと向います。
これが世を変える「治承・寿永の乱」の始まりとなります。 |
| 令旨とは? |
皇太子の命令を伝える文書。平安時代以降は親王の命令文書も令旨と呼ばれた。 |
| 治承・寿永の乱 |
1180年から1185年までの内乱を治承・寿永の乱と呼びます。 |
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歴史探訪(伊豆の旅)

源頼朝船出の浜(真鶴町)
| 石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房へと出発した浜と伝えられている。 |
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