鎌倉手帳(寺社散策)


鎌倉の歴史と源頼朝

≪配流・挙兵・鎌倉入り≫


編集:岡戸事務所
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〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜








1 配流・挙兵・鎌倉入り 4 奥州征伐と征夷大将軍
2 東国の整備 5 晩年の頼朝
3 源平合戦と義経追放



=平治の乱=

蛭ヶ小島
 頼朝が流されたとされる地は「蛭ヶ小島公園」として整備され、頼朝と政子の像が建てられています。
 1159年(平治元年)、京の都では「平治の乱」が勃発します。
 「平治の乱」は、源頼朝の初陣でした(当時13歳)。
 源家重大の「源太産衣」という鎧を着用し、「髭切」という太刀を帯びての出陣だったと伝えられています。
 しかし、平清盛に敗れてしまいます。
 その後、父義朝とともに東国に逃れて再起を果たそうとしますが、頼朝はその一行とはぐれ、平頼盛の追手によって捕らえられます。
 一方、父義朝は尾張国で旧臣の長田忠致の裏切りに遭い殺害されてしまいました。
 兄義平も父の死を知って、清盛の暗殺を企てますが、捕えられ斬首されています。
 次兄朝長は、戦で傷を負っていたため、自ら父義朝に願い殺してもらったと伝えられています。

 頼朝を捕らえた平頼盛は、頼朝を助けた池禅尼の子(=清盛の異母弟)


=伊豆国流罪=

平清盛
 清盛は、捕らえた頼朝を処刑するよう命じますが、清盛の継母池禅尼の懇願によって一命を助けられ伊豆国へ流されます。
 流された地が、現在の伊豆の国市韮山にある「蛭ヶ小島」だといわれています。
 蛭ヶ小島の近くには、のちに源氏再興の旗挙げの際に大きな力となってくれた北条時政の館もありました。
 頼朝の幼い弟たち(希義・今若(全成)・乙若(義円)・牛若(義経))もそれぞれの地へ流されています。


平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏
平治の乱・・・伊豆流罪となった源頼朝
平清盛と源頼朝
平清盛が厳島神社の納めた経巻・・・平家納経
武家政権を樹立した平清盛

太平寺跡碑
池禅尼への恩返し
 西御門にあった太平寺は、源頼朝が平治の乱で敗北したときに、命を助けてくれた池禅尼の恩に報いたいるために、禅尼の姪の「尼になりたいと思っている世の女人のために尼寺を建立したい。」という願いを聞き入れ、その姪を開山として創建したのが始まりだったと伝えられています。



=頼朝の流人生活=

 伊豆国へ流された頼朝は、乳母の一人であった比企尼や母の実家である熱田神宮大宮司の援助を受けて、比較的自由な暮らしをしていたものと考えられています。
 側近には、比企尼の婿の安達盛長がいましたし、佐々木定綱や盛綱といった家臣もいました。
 京都の情報も比企尼の甥三善康信から定期的に受けていたようです。
 そして、日々の生活は父義朝の菩提を弔ったり、狩りを楽しんだりという生活だったようです。

頼朝の乳母
 頼朝の乳母には、比企掃部允の妻の比企尼、首藤経俊の母、小山政光の妻、三善康信の母の姉(比企尼の妹ともいわれるが定かではない。)がなっています。
 中でも比企尼は伊豆配流中の頼朝の世話をしていました。
 頼朝の側近として働いた安達盛長や比企能員は、比企尼の娘を妻としています。
乳母制度と頼朝・頼家・実朝
源頼朝と伊豆国



=伊東祐親の娘八重姫との恋=

 伊東祐親は、伊豆の豪族で頼朝の監視役だったといわれています。
 しかし、四女の八重姫と頼朝は、祐親が京に上っている間に結ばれ、一子千鶴丸をもうけてしまいました。
 祐親は大いに怒り、千鶴丸を川に捨て、頼朝も殺そうとしますが、祐親の次男祐清からその事を聞いた頼朝は、走湯権現に逃げ、北条時政に匿ってもらったといわれています。

 頼朝に重大事を知らせた伊東祐清は、頼朝の乳母比企尼の三女を妻としていました。


八重姫の御堂
伊豆韮山:真珠院
 その後、八重姫は江間小四郎と結婚させられますが、すぐに伊東の館に戻ります。そして頼朝を慕って北条館を訪ねるのですが、頼朝は時政の娘北条政子と結ばれていました。
 悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたと伝えられています。韮山の真珠院には八重姫を祀る御堂があります。

 八重姫が結婚させられた江間小四郎は、北条義時の通称と同じですが別人です。


=北条政子との結婚=

 八重姫との恋に破れた頼朝は、北条時政の長女政子と通ずるようになります。
 いつ結婚したのかは不明ですが、長女大姫が1178年(治承2年)頃に生まれていると考えられるので、その少し前ということになるのでしょう。
 伝えられている話の中には、「時政は娘の結婚に反対して、目代山木兼隆に嫁がせようとした」いうものもあるようですが、兼隆は、1179年(治承3年)に犯罪人として伊豆に流されてきた人物で、目代となったのは1180年(治承4年)のことです。
 したがって、兼隆と政子の結婚という事実はなかったものと考えられます。

 当時伊豆の知行国主は、源頼政、子仲綱と引き継がれたいたようです。
 しかし、頼政が以仁王とともに平氏打倒の挙兵をしたために免ぜられ、代わって、平時忠が国主に任ぜられ、目代に山木兼隆が就任しました。


=源氏再興の挙兵=

 1179年(治承3年)、京都では平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、安徳天皇が皇位に就きました。
 翌1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子以仁王は、皇位継承の望みを絶たれたことから、平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。
 頼朝のところには、叔父の源行家によって届けられています。

 令旨を発した以仁王も源頼政とともに挙兵しましたが、平氏軍に追われ平等院で最期を遂げました。

 頼朝は、当初、様子を見守っていたようですが、平氏による源氏追討の動きが大きくなってきたことから挙兵を決意し、まずは、目代の山木兼隆を襲撃することにします(参考:香山寺)。
 1180年(治承4年)8月17日、頼朝は、北条時政の協力を得て挙兵し、山木兼隆を討ち取り、相模に進軍しましたが、「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親らに敗れてしまいます。
 敗れた頼朝は山中に逃れ、8月28日に真鶴岬から海路安房へと向います。
 これが世を変える「治承・寿永の乱」の始まりとなります。

令旨とは?  皇太子の命令を伝える文書。平安時代以降は親王の命令文書も令旨と呼ばれた。

治承・寿永の乱  1180年から1185年までの内乱を治承・寿永の乱と呼びます。



歴史探訪(伊豆の旅)
流人時代の源頼朝や北条政子などの足跡を巡る旅








源頼朝船出の浜(真鶴町)
 石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房へと出発した浜と伝えられている。


頼朝の挙兵と相模の武将
三浦一族(三浦義明・義澄、岡崎義実 佐奈田義忠 和田義盛)
大庭氏(大庭景義・景親 俣野景久) 梶原氏(梶原景時・景季)
土肥実平 曾我兄弟 長尾定景 渋谷重国 愛甲季隆


〜鎌 倉 入 り〜


衣張山からの景色
三方を山で囲まれ全面が海の鎌倉の街。
 真鶴から安房に渡った頼朝は、上総介広常千葉常胤に参上を命じ、武田信義を味方に付けるべく北条時政を甲斐へ派遣しました。武蔵国に入る頃になると、葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも参陣し、1180年(治承4年)10月6日、相模国へ入ります。
 鎌倉を本拠としたのは、代々の源氏にゆかりがあるとともに、三方を山で囲まれた天然の要害であったことが理由ですが、それを進言したのは千葉常胤だったといわれています。



源頼朝の挙兵

源頼朝の守り本尊〜正(聖)観音像〜

源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日

源頼朝相模国へ進軍〜従った武将は・・・〜
三浦一族の進発〜石橋山の戦い〜
源頼朝の敗戦〜石橋山の戦い〜
先陣を切って討死した佐奈田与一義忠〜石橋山の戦い〜
源頼朝を助けた武将たち〜石橋山の戦い〜
石橋山の戦いと衣笠合戦〜三浦義明の討死〜
渋谷重国と佐々木四兄弟〜石橋山の戦い〜
明暗を分けた大庭兄弟(景義と景親)〜石橋山の戦い〜
梶原景時と石橋山の戦い
母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊〜石橋山の戦い〜
法華経を読み続けた長尾定景〜石橋山の戦い〜

源頼朝・・・真鶴から安房へ
源頼朝大軍を率いて鎌倉入り



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