鎌倉手帳(寺社散策)

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鎌倉の歴史と源頼朝
《晩年の頼朝》

岡戸事務所
編集:岡戸事務所







=富士の巻狩り=
(曽我兄弟の仇討事件)


 1193年(建久4年)、頼朝は、権威を示すための軍事訓練(巻狩り)を富士の裾野で行いました。

 そのときに起こった事件が曽我兄弟の仇討です。

 頼朝の御家人工藤祐経曽我兄弟に討たれた事件ですが、鎌倉へは「頼朝が討たれた」という誤報が流れました。

 そのときに頼朝の弟範頼は、北条政子に対して「私がいるから大丈夫」と発言したといわれています。

 この発言が謀反の疑いを招いてしまいます。

 範頼は、頼朝に起請文を書きますが、そこに「源」という姓を使用してしまったことから、さらに頼朝の怒りをうけることになってしまいます。

 これにより、平氏滅亡に功のあった範頼は、伊豆修禅寺に流された後、梶原景時に攻められ自刃しました。


富士裾野の巻狩り

源範頼の謀叛


修禅寺
修禅寺
源範頼の墓
範頼の墓



来迎寺(材木座)

 1194年(建久5年)、頼朝は三浦義明の菩提を弔うために能蔵寺を建立しました(真言宗)。
 のちに開山の音阿が時宗に帰依したため、来迎寺と改められています。


来迎寺
来迎寺





=東大寺再建供養と大姫の入内問題=

 1195年(建久6年)、頼朝は、東大寺再建供養出席のため、政子、嫡男頼家、長女大姫を引き連れて上洛します(参考:南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜)。

 病弱だった大姫を伴った理由は、天皇の妃として入内させるためでした。
 そのため頼朝は、後白河法皇の寵愛を受け、関白九条兼実と敵対関係にあった丹後局に接近します。

 この行動が、これまで頼朝と協力態勢を築いてきた親幕派の兼実の失脚につながり、反幕派の台頭を招いてしまいます。

 その上、1197年(建久9年)7月14日、大姫が亡くなり、入内の計画も失敗に終わっています。


兼実も娘を入内させていたことから、頼朝は、あえてその政敵に近づいたのだと考えられています。

東大寺の供養では、再建に尽力した宋の仏師陳和卿に会うことを望みましたが、陳和卿は「多くの人の血を流した頼朝」に会うこと拒否したといいます。


東大寺の大仏
東大寺の大仏
(奈良の大仏)
東大寺大仏殿
東大寺大仏殿

 南都焼討によって焼失した東大寺の再建には、頼朝も積極的な助勢を行いました。
 以後、鎌倉と東大寺の関係は深まり、鶴岡八幡宮の別当を勤めた定豪が東大寺の別当に就いたこともあったといいます。


南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜


鎌倉大仏
鎌倉大仏

 鎌倉観光で人気の「鎌倉大仏」

 鎌倉大仏の造立は、頼朝が思い立ったのだともいわれています。






=頼朝の最期=

 1198年(建久9年)12月27日、頼朝は、稲毛重成が亡き妻のために架けた相模川の橋供養に出席します。

 しかし、その帰途に落馬し、それが原因となって翌年1月13日に死去したと伝えられています(享年53歳)。

 頼朝の死には、「落馬による怪我」や「病気」、あるいは、「暗殺」などの説がありますが、死因は定かではありません。

 頼朝の死んだ年の6月30日には次女三幡が亡くなり、1204年(建仁3年)7月18日には長男頼家修禅寺で暗殺され、1219年(建保7年)1月27日には次男実朝鶴岡八幡宮で暗殺されます(参考:実朝の暗殺)。

 こうして頼朝の創った源氏政権は、挙兵から約40年で幕を閉じました。


旧相模川橋脚
旧相模川橋脚

 茅ヶ崎市の旧相模川橋脚の遺跡は、稲毛重成が架けた橋と考えられています。

弁慶塚
弁慶塚

 橋の落成式の帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかった頼朝の前に、源義経、行家らの亡霊が現れ、頼朝は落馬したのだと伝えられています。





源頼朝墓
源頼朝墓


 頼朝は、奥州征伐の祈願所として設けた持仏堂に葬られたと伝えられています。
 持仏堂は一周忌に法華堂と改められました。

 法華堂は、和田合戦では、将軍実朝が避難し、宝治合戦では、三浦泰村ら一族500人が自害した場所でもあります。

 西御門にある来迎寺の如意輪観音は、頼朝の持仏堂(法華堂)にあったものと伝えられています。 

 現在の墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたものです。



源頼朝像
鎌倉の歴史と源頼朝


1 配流・挙兵・鎌倉入り

2 東国の整備

3 源平合戦と義経追放

4 奥州征伐と征夷大将軍

5 晩年の頼朝



〜源頼朝ゆかりの地を巡る〜

歴史めぐり源頼朝

誕生から最期まで、頼朝ゆかりの地を巡って頼朝を学びます。






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