「お父さん、そこに真っ赤な実がなっているでしょう。あれ、なんていう木か知ってる?」
武彦が黙っていると、柊子が眼で笑いながらこたえた。
「あれ、ガマズミっていって食べられるのよ」
武彦はその木の方へ近づき、一房の実を採ってみた。小豆の先が少しとがったような、
艶々した赤い実が二、三十個ほど並んでいた。二、三粒を摘み、口に含んで噛むと、思わ
ず口をすぼめてすぐに外に吐き出した。それを見ていた柊子は、悪戯っぽく笑った。
「鳥はもう少し賢いよ。ガマズミの実は、今はただ酸っぱいだけ。もう少しすると、白い粉を
ふいて甘く熟すの。それが鳥にはわかるんだから。じゃあ、なぜ実が赤いか知ってる?」
相変わらず武彦が黙っていると、お喋り好きの柊子はさらに続けた。
「鳥が見つけやすいためよ。秋の終わりに、赤い実って目立つでしょ。そして、実を提供す
る代わりに、消化されずに残った種を糞と一緒に、落としてもらうの。鳥は同じような環境
で移動するから、ガマズミは動かなくても、自分と同じ環境に種を植えてもらえるってわけ」
柊子は、武彦の表情をちらっと覗った。(自然のしくみってすごいでしょ)とでもいいたげだ
った。
武彦は、何度か小さくうなずき、自分がどのようにして自然と付き合ってきたかを振り返っ
た。せいぜい、ゴルフ場の管理された芝生の上を歩く程度で、周囲の樹木は緑の障害物
としてしか見ていなかったことに気付いた。武彦は、改めて周囲の樹木を見渡してみた。
すると、緑の塊の中から、一本一本の樹木が浮かび上がってきて、幹の立ち方、枝の張り
方、葉っぱの形、どれもが個性的で、それぞれが与えられた場所で、精一杯生きている姿
が、見えてきたような気がした。(まるで人間の世界だな)、と武彦は思った。
「お父さん」、武彦が振り返ると、柊子はしずかに口をひらいて言った。
「家から会社までは短い距離なのにいつも車で通うじゃない。たまには余裕を持って歩い
てみたらどう?車から見る景色とは、まったく違った世界が見えてくるから。足元に目を落
とせば、道端に生えている草にも気づくし、彼らがいつも同じ姿ではないことがわかるはず
よ。芽が吹いて、花が咲いて、種が熟して、そして枯れて、平凡に生きていても、人生には
いろいろな出来事が用意されているんだって、なぐさめらるときがあるの」
柊子は真顔でそう言うと、武彦の肩をポンと軽く叩き、照れるようにからからと笑った。