一輪のバラ 


     改札口を通ってから、悠一が左手に眼をやると、夕方の6時をすこし過ぎていた。

    M駅周辺の町並みは、すでに夕闇が押し寄せ、商店街には色とりどりのネオンが輝き始

    めていた。駅の改札口を出てみると、小さな石畳の広場には、大学生らがあちこちに小

    さな群れをつくり、飲みに出かけるらしく、すでに盛り上がっていた。

      悠一が、見慣れない都会の風景に視線を奪われていると、後ろから肩をポンと叩か

    れた。振り向くと、娘の薫が立っていた。

    「10分の遅刻か」

    「これでも、急いできたんだよ。公演が終わってすごく込んでたから、しょうがないよ」

    改札口から離れると、すぐ前の交差点で、信号が変わるのを待った。薫は、この春から

    東京に進学していた。

    「今日のバレエの公演、どうだった?」

    「感動した、涙が出そうになったよ」

    「はぁ、バレエで涙が出るとは、しあわせな人間だな、ところで、腹は空いているか?」

    「うーん、あまり空いてない」

    「たまに仕事で東京に出てきて、フランス料理をご馳走してやるっていうのに」

    「だって、本当なんだもん」

     前もって予約していたフランス料理の店は、駅から歩いて5分ほどのところにあった。

    レストランは思ったよりこじんまりとしていて、入り口には少しくたびれたフランス国旗が

    揚がっていた。

     色褪せた木製の扉を開けると、狭い部屋のテーブルはおおかた客で埋まっていた。ま

    もなく、部屋の奥にひとつだけ空いている二人用のテーブルに案内された。満員にもか

    かわらず、店内はしずかだった。テーブルに眼を落とすと、ガラスの小ビンには、オレン

    ジ色のバラが一輪挿してあった。

     悠一はワインを、薫はカシスオレンジを頼んだ。やがて前菜のあと、軽くローストされた

    数種類の野菜が彩り豊かに盛られてきた。脇には、トマト、アンチョビー、マヨネーズをベ

    ースにした三種類のソースが添えられていた。

    「香ばしくて、甘いね」

    薫はそういって、かたちよく丁寧にカットされた野菜を、つぎつぎと口に運んでいった。

    皿をきれいにして、カシスオレンジをひと口含むと、テーブルの一輪のバラに眼を移し、

    口を開いた。

    「そう言えば、いつかおとうさんと大喧嘩したとき、あったよね。次の日、わたしの部屋に

    バラの花が一本、空き瓶に挿してあったけど、あれって、もしかして、お父さん?」

    悠一は、不意を突かれたように、すこし眼を見開いて見返した後、すぐに視線をはずし

    て、首をかしげて答えた。

    「うーん、よく憶えてないな」

    「・・・そう、まあいいけど」

     一年前のことだった。

    「わたし、お父さんの子供に、生まれたくなかった!」

    眼を大きく見開いたまま、そう叫んでから、薫は泣きじゃくったまま、訴えていた。

    「お父さんって、いつもわたしの事、だらけているとか、ちゃらちゃらしているとか、そんな

    ことばかり言って、わたしのことなんか、何にも理解しようとしないじゃないの。わたしの

    現実なんか、何も知らないくせ癖に!」

    「じゃあ聞くけど、おまえの現実って何なんだ」

    「言っても、わかるはずないでしょ。どうせ、自分の若いころと比べて、まだまだ甘いって

    言うんでしょう、わたしは、お父さんとは違う人間なんだからね!」

     その頃、考え方の違いで、悠一と薫は何度も口喧嘩をしていた。その日はとうとう、薫

    を泣かせてしまっていた。

    (人はそれぞれ違うというのに、なぜ認めてやれないのか・・・)

    悠一は詫びるつもりで、薫の部屋にこっそりと、バラを一輪だけ飾っておいた。

     冷やしたスープのあと、メインの肉料理が運ばれてきたが、悠一はワインを飲みすぎた

    せいか、肉を半分ほど残していた。

    「お父さん、その肉食べないなら、わたしに頂戴」

    「おまえ、さっきは腹が空いてないって言っただろ」

    「だって、食べてるうちに、食欲わいてきたんだもん」

    そのあとも薫は、デザートケーキをすっかり平らげていた。

     店を出てから、再び駅へと向かった。商店街のネオンの多くは既に消えていて、人通り

    もまばらになっていた。行き先が反対方向なので、駅で別れることにした。

    「お父さん、年に何回くらい出張で東京に来るの?」

    「まあ、2,3回ってとこか」

    「だったら、その時は今日みたいに御馳走してね」

    「まあ、なんだな・・・あまり贅沢に慣れるのは、よくないから」

    「なに言ってんの、ぜんぜん贅沢なんかしてないし」

    薫は、口をとがらせて反論してきた。

     その瞬間、薫の訴えるような表情が、悠一にあのときの表情を思い出させた。悠一は、

    目尻を少し下げて口元を緩めると、薫のあたまに手を伸ばし、くしゃくしゃに撫でてやっ

    た。