カーネーション




     修一は学生時代サッカーをやっていて、足首に古傷を抱えていたので、テーピングに

    は慣れていた。

    「どうだ、これでちょっと踊ってみなさい」

    娘の理香は、立ち上がってつま先立ちすると、痛いほうの足で、軽く飛び跳ねてみた。着

    地したとき、思わず眉間にしわを寄せたが、首をかしげて、すこし考えるようなしぐさをし

    てから、ゆっくりと口をひらいた。

    「うーん、ちょっと痛いけど、何とかなると思う」

     理香の髪は、後ろから巻き上げられ、お団子型にきれいに丸められていた。脚には白

    いストッキングが通され、その右足首には、白いテープが幾重にも巻かれていた。

     数日前、バレエのレッスンで、理香は足を挫いていた。足のくるぶしは腫れて内出血を

    おこし、近くの医者に診てもらったところ、舞台に上がることは無理だと言われていた。だ

    が、無理を押してでも出演する理由が、理香にはあった。

     理香は、この春から高校に上がることになっていて、今回の公演を最後に引退すること

    になっていた。父親の修一から辞めるよう、通告されていたのである。

    母親はバレエを続けられるように修一の説得にあたったが、無駄だった。辞めさせる理

    由も修一の主観的なもので、理香にはとうてい納得できないものだったが、頑固な修一

    には通用しなかった。そして今日は、最後の晴れ舞台となる日を迎えていた。

    「これが最後の舞台だから、多少痛くても、あとは根性で踊りきるしかないな」

    修一の言葉に、理香は下を向いたまま何も答えず、テーピングで不自由に固定された足

    首を、何度もぐるぐると回していた。

     まもなくして準備が整うと、理香が母親と一緒に、家を出るところだった。

    「あなた、本当に観に来ないんですか?今日は、理香が踊る最後の日なんですよ」

    妻に催促されても、修一は、低く唸ったまま、新聞から眼を放そうとしなかった。

    玄関のドアが閉まり、二人が出ていくのを確かめると、修一は深くため息をつき、新聞

    を無造作に閉じた。窓の外に眼をやると、空は快晴で、雲が白く輝いていた。

     その日、修一はバレエの公演を観に行かなかった。家の中で本を読んだり、テレビを

    見たりしていたが、時間を持て余していた。結局、映画館で時間を潰すことにし、夕方に

    なってから家に戻ったが、誰もいなかった。

     日がとっぷりと暮れ、ひとりビールを飲んでいるところへ、ようやく玄関のドアの鈴が鳴

    った。まもなく、(ただいま)という理香の声が、部屋に小さく響いた。

    夕食になっても、修一は黙ってビールを飲んでいた。床には、公演に招待した人から贈ら

    れたと思われる、赤、白、ピンクのカーネーションの花束が、打ち棄てるように置いてあっ

    た。

    少したって、修一の酔いが回ってから、ようやく理香に声をかけた。

    「どうだった、今日の公演・・・」

    理香は何も答えず、表情は硬くこわばったまま、黙って箸と口を動かしていた。

    「疲れたのか・・・」

    何の反応もない理香を見て、修一は、それ以上声をかけることを諦めたようだった。

    それを見かねた隣にいた妻が、すこし言いにくそうに口を開いた。

    「実は、今日の公演の最中、理香のトウシューズが脱げてしまったんですよ。それから、

    予定の踊りができなくなって・・・」

     妻が言い終わる前から、うつむいて聞いていた理香の顔がゆがんでいた。そして、肩

    が小刻みに震え、大粒の涙がぽろぽろと、テーブルの上に落ちていた。

    その様子を見ていた修一は、やがて見かねたように、ゆっくりと口を開いた。

    「人生っていうのは、なかなか思い通りにいかないもんだな。一生懸命に努力しても、報

    われないことも多い。いいこともあれば、わるいこともあるもんだ」

    修一の話が終わらないうちから、理香は箸をテーブルに叩きつけるようにして、何も言わ

    ずに椅子を離れていった。

     修一と妻が二人きり取り残され、妻がふたたび口を開いた。

    「理香のトウシューズが脱げるなんて、今まで一度もなかったんですよ。これはたぶんだ

    と思いますけど、脱げたのは、あなたが巻いてくれたテーピングのせいですよ、あの子は

    何も言いませんでしたけど・・・」

    黙って話を聞いていた修一は、ぬるくなったビールをグラスに注いで、喉に押し込んだ。

     テーブルの上がきれいに片付いたあと、修一はテーブルを離れた。部屋を出て、その

    まま二階に上がって行くと、理香がいる部屋には、明かりがついていた。

    ドアを軽く叩いたが、返事がないので、しずかにドアを開けて入った。理香は、修一に背

    を向けるように、毛布を被ったまま、壁の方を向いてベッドに横になっていた。

    「おまえ、どうしてもバレエ続けたいのか」

    修一は小さな声で聞いたが、反応はなかった。修一は、もう一度声をかけた。

    「どうしても、続けたいのか」

    今度は大きな声で、怒鳴るように聞き返すと、理香の頭が小さく動いた。

    「さっき、人生は思い通りにいかないって言ったけど、思わぬところから道が開けていくの

    も、人生の面白いところだ。お父さんは、これでバレエは終わりだって言ったけど、今はも

    うすこしバレエを続けてみてもいいかなって思っている」

    そういうと、修一は踵を返して、部屋を出た。

     翌朝、修一が出勤しようと玄関口に出ると、あのカーネーションがガラスの花瓶に活け

    られていた。修一は、カーネーションに顔を近づけ、眼を閉じて大きく息を吸い込んだ。