それから八年たった、ある夏の日のこと。雅之の家に伸介がとつぜん訪ねてきた。そ
の日に、夜釣りにいかないかと誘ってきた。伸介は、中古の車を持っていた。
黒鯛を釣るつもりだと、伸介はいった。ふたりが海辺にたどり着いたとき、太陽は地平線
に接したばかりで、海は赤く染まっていたが、堤防の先にたどり着く頃には、すでに黒ず
んでいた。頭上には、無数の星が瞬きはじめていた。
雅之は、伸介に作ってもらった仕掛けにゴカイを刺し、電気浮きとともに、海へと放り
こんだ。海は穏やかにうねり、月光に照らされた水面は、きらきらと光っていた。その光
の波に埋もれるように、小さく光る赤い電気浮きを、雅之は眼で追い続けた。堤防にぶつ
かる波のほかに音はなく、しずかな夜だった。餌を数回ほど付け替えたころ、伸介が口を
ひらいた。
「雅ちゃん、今年から高校か、Y高に行ってるんだって。頭いいんだな」
雅之は、電気浮きから眼を離さずに、伸介に聞いた。
「伸ちゃん、いま何やってるの?」
「おれさぁ、定時制やめてからしばらく働いたんだけど、結局、別の定時制に通ってるん
だ。今年から四年で、順調なら来年卒業の予定。雅ちゃんとは学年で七つ違うのに、三
つ違いになっちゃったな。二十三にもなって、まだ高校に通ってるんじゃなぁ・・・」
そういうと、伸介は自嘲気味に低い声で笑った。
「でも、先のことは、わかんないよ」
「そりゃあ、生きていればいいこともあるって、人はいうけど、それって、幸せな人間が、
不幸せな人間に言う慰めみたいな感じがしてさ、どうも・・・」
話が途中で切れたので、ふと見ると、伸介の竿が大きくしなっていた。リールが唸り声上
げて、素早く回転していた。雅之は黒い海を見つめ、魚が姿を現すのを、じっと待っ
た。やがて、一尺を超える黒鯛が、堤防近くの水面に浮かび上がってきた。
黒鯛を見るのは、雅之にとって初めてだったが、それは月光に照らされ、銀色に輝い
ていた。獲物を釣り上げ、クーラーボックスに入れたあと、伸介は雅之のほうを向いてか
ら口をひらいた。
「やっぱ、雅ちゃんの言うとおりかもね。おれみたいに才能もなくて、努力の出来ない人
間でも、先のことは分かんないね。こういうこともあるしさ」
そう言って、伸介はにんまりと笑ったが、雅之は笑いもせずに言った。
「才能がないとか、努力できないとか言ったけど、才能があっても、努力できても、悪い人
間じゃ幸せになれないよ。伸ちゃんみたいに、いい人間のほうが、しあわせになれるに
決まってるよ」
伸介はクーラーボックスの前に、背中を丸めてしゃがんだまま、黙っていた。見ると、餌
を付け替えていた手が、止まっていた。
そのあと、会話もそこそこに、ふたりは釣りに熱中していった。気づくと、山の稜線か
ら、空が白みはじめていた。伸介は、黒鯛を三匹、雅之は、一匹釣りあげていた。
帰り道、海岸線を歩いていると、砂浜に一本の灌木が生えていた。ハマナスだった。枝
葉を四方に広げているその中に、季節外れに咲いた赤い花がひとつだけ、朝日に照らさ
れ、輝いていた。