オルゴール





      「先生、患者さんから電話がきています」

      患者のカルテを見ると、老女は昨日も受診していた。膝が痛いということだったが、診

     察では特に異常はなかったが、電話に出てみると、言葉のニュアンスから往診してほし

     いということだった。

      その日は土曜日だったため、午後からひとりで往診に行くことにした。老女には、ふ

     たりの娘がいたが、いずれも遠方に嫁いでいた。夫は三年前に亡くなり、八十五歳の

     老女ひとりが家に残されていた。

      ガラガラと、玄関の戸を開けてから、声をかけると、家の奥の方から小さな声がした

     が、玄関に出てくる気配はなかった。老女は、座卓に座っていた。しかも、悪いはずの

     膝で、正座していた。挨拶をすると、上目遣いにすまないとでも言いたげに、遠慮気味

     ににっこりと目を細めた。

     「膝が悪いって言ってたけど、正座、できるじゃない」

     「正座はできるけど、歩けないんですよ」

      座卓にもぐっている老女の膝を引っ張り出すと、やはり膝は少しも腫れていなかった。

     「膝は悪くないと思うけど、ちょっと体力が落ちて、脚に力が入らなくなったのかな?」

     「もう、このまま歩けなくなるんですかねえ・・・」

      座卓の上に眼を通すと、鏡と薬袋、他に鉛筆で書かれたメモらしきものが、いくつか

     散らばっていた。その中に、陶器の一輪挿しが置いてあり、菊の花を小さくした薄紫色

     の花が差し込んであった。老女に聞くと、都忘れという花だと教えてくれた。

     「もう、何十年も前に主人が裏庭に植えたんですけど、今でも咲いてくれるんですよ」

     座卓の周りを見渡すと、まだ洗っていない鍋の中に、茶碗や皿が重ねて入れてあっ

     た。

     「膝が悪くて、台所も立てなくてね」

     目線を下にずらし、言い訳するかのように、老女はすこし決まり悪そうに答えた。

     「とりあえず、注射を用意してきました。終わったら、すこし歩く練習をしてみますよ」

      注射を見ていた老女は、膝に針を刺されてもぴくりとも反応しなかった。終わってか

     ら、ぽつりと口をひらいた。

     「独りで年を取って、だんだん体が動かなくなっていくのは、つらいもんですねえ・・・」

     小さな声ではあったが、その言葉は相手に話しかけるというより、老女の独白だった。

     「じゃあ、すこし歩く練習をしてみますか」

     老女は、自信がないと言ったが、それでも無理に即されながら、座卓から脚を引き抜い

     た。最初は、痛いといいながらも、廊下の手すりを何度か往復するうちに、歩く姿は少し

     ずつ良くなっていた。

     「いいじゃない。一日に二度、三度と稽古すれば、元のように歩けるようになりますよ」

     「そうですかねえ」

      老女は、医者の慰めの言葉と知りながらも、少しうれしそうな表情で答えた。一通り

     治療を終えて帰ろうとすると、老女はちょっと待てくれと声をかけた。老女は、杖をつい

     て歩きながら、廊下の奥へと案内した。部屋には客間があり、その部屋の一角を、老

     女は指さした。

     「先生、この中から、好きなものを持っていってください」

      そこには、ウイスキーの箱が三つ並べてあった。往診に来ると知ってから、どこから

     か引き出して、往診に来るとわかって、準備していたらしかった。好意を、素直に受け

     取ることにした。

      診療所に帰ってから、ウイスキーの箱を開けてみた。すると、ビンの中に小さな人形

     が埋め込まれていた。赤いドレスと赤いトーシューズを履いたバレリーナだった。

      ラベルには、made in France と書かれ、脇には判子が押されていた。ビンの蓋に眼

     をやると、ウイスキーが目減りしていた。判子の文字は消えかかっていたが、大阪税関

     48.6.26と読めた。48というのは、昭和48年なのか、いずれにしても購入して数十年

     の歳月が流れていた。誰かの海外旅行のみやげ物かもしれなかった。

      目減りした分、ビンの周りがべとついていた。舌先で舐めてみると、甘かった。それは

     ウイスキーではなくリキュールだった。そのリキュールのベタつきを洗い流そうとして、

     軽く石鹸をつけて指で軽くなでてから、蛇口をひねった。ひと通り洗い流し、ビンの裏も

     と思ったとき、あわてて、蛇口の水を止めた。

      裏には、プラスチックの板が埋め込まれ、その板には、ゼンマイネジが付いていた。

     そのバレリーナは、単なる飾り人形ではなかった。オルゴールがリキュール瓶の中に

     埋め込まれていたのだった。      

      気づくと、ビンの中がきらきらと光っていた。見ると、ウイスキーの底に金箔が沈んで

     いて、それがひっくり返されて、雪のように舞っていた。ゆっくりとネジを回してから、そ

     のビンを台の上に置いてみたが、何の変化もなかった。何十年も使われずにいたゼン

     マイは、錆ついてしまって動かないらしかった。

      その動かない踊り子をじっと観ていた。踊り子は、金粉が舞い落ちる中で、両足をつ

     ま先立ちのまま、じっと立っていた。

      二三十秒ほどたっただろうか。突然、音楽が鳴り出し、踊り子が踊りだした。オルゴ

     ールは、ぎこちなく、時々止まりそうになりながらも、動き続けた。曲は、青きドナウだっ

     た。両足のつま先で立って、飛び上がったかと思うと、右へ左と軽々と踊っていた。バ

     レリーナには、無数の金の雪が、きらめきながらゆっくりと、舞い落ちていた。

      老女は言っていた(これは、年代物ですから)と。ふと、数十年前に、まだ老女がまだ

     若かった頃、夫に語りかける光景が浮かんできた。

     (あなた、これは舶来物のウイスキーですから、大事に取っておきましょうよ。いつか、

     大事な時に、誰かにあげる時が来るかもしれませんから)、と。

      バレリーナは、クルクルと回り、壊れたリズムの青きドナウが、診察室に鳴り響いてい

     た。