缶コーヒー



     パソコンの手を止め、窓の下を眺めることが、和彦の癖になっていた。性に合わない営

    業の仕事につき、営業成績に追い回される日々に嫌気がさしてはいたが、それ以上に、

    上司から投げられる叱責が、この仕事を耐えがたくしていた。和彦は、この春大学を卒

    業し、小さな広告代理店に就職していた。

     窓には、初冬の冷たい小雨が音もなく当たり、幾筋もの雨足を残していた。窓を見下ろ

    すと、数日前から始まった道路工事が、夜になっても続いていた。赤く点滅する誘導棒を

    持った作業員に、ふと目にとまった。その作業員の体の線は細く、ヘルメットの下からは

    み出た髪が、肩まで垂れていた。

     十時近くになって、和彦が会社を出てから、その工事現場を通り過ぎるとき、和彦はそ

    の作業員の姿を横目で確認した。やはり、娘だった。作業服の背中には大きなVの字が

    縫い込まれ、ヘッドライトが通るたび、明るい黄色に反射していた。和彦は、立ち止まらな

    いように速度を緩め、娘の顔をのぞき見た。瞳が、黒くて大きかった。

     一週間後、和彦が窓から下をのぞくと、その娘はいつものように誘導棒を振っていた。

    会社を出た帰り道、工事現場で立ち止まり、娘の瞳を見た。寒い夜空にクルクルと元気

    に動いていた。信号で待っているとき、和彦はすぐそばで立っていた娘に、思い切って話

    しかけた。

    「寒いのに、大変ですね」

    だが、娘は黒い瞳でじっと見返すだけで、ひと言も答えなかった。

     翌日の夜、和彦が工事現場を通り過ぎるとき、また信号に引っかかった。昨日と同じに

    娘がそばで誘導棒を振っていた。和彦は、娘と眼があったので、もう一度声をかけてみ

    た。

    「この仕事、辛いでしょ?」

    すると、大きな黒い瞳が和彦の眼を捉えて、こう言った。

    「ワタシ、ツラクアリマセン」

    娘は日本人ではなかった。よく見ると、浅黒いのは、夜のせいばかりではなかった。アジ

    ア系の若い娘が、夜の工事現場で働くというのは、何かしらの理由がありそうだった。

     次の週、和彦は、はじめての大口の契約を取り損ねた。それに対する上司の言葉は、

    仕事のやり方というよりも、人格そのものを否定していて、周囲の憐むような視線が、和

    彦をいっそう辛くさせた。始末書を書き、仕事を終えると、夜の十時を過ぎていた。

     和彦が会社を出ると、いつもの現場にはあの娘ではなく、中年の男が誘導棒を振って

    いた。あたりを見回すと、娘は、すでに閉まった店の手前で、シャッターに背をもたれてし

    ゃがみ込み、缶コーヒーを飲んでいた。

     ちょうどそこへ、男女の学生数人がかたまって近づいてきた。酔った女子学生二人が、

    男たち数人とじゃれ合いながら歩いていた。娘はしゃがんだまま、彼女らをじっと見上げ

    ていた。

     二人の女子学生は、華やかな服を身に着け、娘の前を笑いながら通り過ぎていった。

    娘は、薄汚れた作業服で、化粧もせずに、缶コーヒーを両手で握りしめたまま、ひとりで

    しゃがみ込んでいた。

     和彦は、その女を黙って見ていたが、気づくと、自販機の前に立ち、娘が飲んでいるの

    と同じ缶コーヒーのボタンを押していた。そして、熱くてまともに持てないはずの缶コーヒ

    ーを、強く握りしめたまま、娘のいるほうへと歩いて行った。

    「あの、ここ、座ってもいいですか?」

     娘は、すこし驚いた様子で眼を見ひらき、和彦を見上げていた。訝しがるように、眉間

    にしわを寄せたあと、目線を地面に移し、口元をゆるめた。

    和彦は、頭をちいさく下げてから、娘と少し離れてしゃがみこんだ。缶コーヒーの蓋を開

    けると、喉を二三度鳴らしながら、熱いコーヒーを一気に流し込んだ。そのあと、大きく息

    を吐き出し、娘がやっていたように、両手で缶コーヒーを包みこんだ。

    「うまいな、このコーヒー・・・」

    和彦のひとり言に、娘は反応して和彦の方を振り向き、眼を大きくひらいて問いかえし

    た。

    「いや、おいしいな、と思って」

   そういって和彦は、その缶コーヒーを肩の上まで持ち上げて見せた。

     さっきの学生とは反対方向から、仕事帰りのサラリーマンが三人、足をふらつかせ大声

    を上げながら、近づいてきた。仕事帰りでかなり酒を飲んでいた。和彦は、しゃがんだま

    ま、近づいてくる彼らを見上げていた。

     すると、遠くから見ていたときには、お互い愉しそうに話していたはずなのに、間近にき

    て下から見上げると、まったく別の表情に変わっていた。笑っているのは仮面であって、

    本当の顔は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。それは、同じ目線から見

    るだけでは、決して気づかれない顔だった。肩を落として去っていく彼らのうしろ姿を見

    て、和彦は視線を舗道に移した。

     (・・・みんな、つらいんだな)

    和彦がふと横を振り向くと、娘が和彦をじっと見てから口をひらいた。

    「アナタ、シゴト、ツライデスカ?」

    ぎこちない日本語だったが、やさしい声だった。

    和彦は、息を吐き出すように笑ってから、首を横に振った。それを見た娘は、生き生きと

    した大きな黒い瞳を細くして、ふっと笑って返した。

      二人がしゃがんでいる店の隅っこに、アスファルトのひび割れがあり、そこから植物

    が葉を広げていた。タンポポだった。タンポポは、わずかな冬の光を少しでも浴びようと、

    地面に這うようにして、葉をロゼット状に広げていた。