森のお医者さん山をあるく(1)


      

          山をあるく(1) きっかけ




            
 
   山林に入ってみたいと思ったのは、三十を少し過ぎてからだった。実家は、江戸時代か

   ら林業を営んでいた。当時は、自らの意志と思っていたのだが、今振り返ってみると、死ん

   だ祖父がわたしにそう思わせたと信じている。

    小学校に入る前のころだったと思う。朝になって、布団の中にもぐりこんだままでいると、

   低いうなり声をあげながら、耕運機が家の門から入ってくる音で目が覚めた。エンジンの音

   が途絶えると、何人か大人たちの元気そうな話し声が聞こえてきた。

   彼らが山仕事に向かうための準備がはじまると、何の関係もない自分までがあわただし

   さを感じて、やおら布団から抜け出し、顔を洗いに洗面所へと向かった。
 
    玄関前には、いつも縄の束が山積みにされている。雪の重みで倒伏した杉の苗を起こす

   ときに使うわら縄だった。学校に行く前に、玄関先を出るときに、わらの匂いが漂っていた

   ことを思い出す。

    山積みのわら縄の横には、プラスチック製のロケットのようなものが、何十本も置かれて

   いた。ロケットの根元のほうには、赤い蓋のようなものがついてあり、幼い自分は、そこに

   火薬でも詰め込んで打ち上げるのかしら?と不思議に思っていた。

   山に行くようになって、そのロケットが山の地面に深く埋没しているのを発見した。火薬入

   れと思った赤い部分だけが地面から覗いていた。そのときになって、打ち上げたロケットが

   地面に落ちて突き刺さったのではなく、山林の境界に使う杭であることがわかった。

    小さい頃に不思議に思っていたことが、大人になって発見した時の感覚というのは、喜

   びと同時に、少なからず失望を憶える。知識が乏しい代わりに、想像力が豊かだった幼い

   頃と、知識が豊富になりすぎてし、想像力が働くなったしまった大人の時代、どちらが愉し

   かったのかと、疑問に思ってしまう。
  
                 
        
    人から、趣味は何ですか?と聞かれることがある。いくつかある趣味の中から、「山歩き

   とか・・・」などと答える。

   「へえー、山ですか」と言って、私に合わせるように山の話題を振ってくるのだが、きまって

   登山の話にすり替わっている。

   「いや、登るほうじゃなくて、歩くほうの山です」と答える。

   「ああ、そうですか、ハイキングですか」

   「いや、そうじゃなくて、樹木を観察したりとか・・・」などと答える。

   「あっ、なるほど・・・」と言うと、相手の人はもう後が続かず、山の話はそれで終わってしま

   うことになる。

    樹木を観察して山を歩く、などと言ったら、それで会話が途絶えてしまうことは予想がつく

   のだが、短い会話で樹木の話をしたところで、相手にその魅力が伝わるとも思えない。

   早々に話を打ち切ることになる。

    山を歩くことと、山を登ることとどこが違うのか?登山は、頂上にたどり着くという目標が

   ある。苦労してたどり着いたときには、何とも言えぬ満足感があり、頂上から見渡す景色

   は胸のつかえをすっきりさせてくれる。あるいは、山に抱かれている感覚が、自分がちっぽ

   けな存在であることを認識させ、いかに自分の悩みがちっぽけであるかに気づき、知らな

   いうちに、日常のストレスから解放してくれている。
 
    それに比べ、山を歩くというのは、目標はないし達成感もないし、何々山に登ったという

   ような自慢話のひとつもできない。

   しいて言えば、癒されるという感覚かもしれない。そう言うと、「それは、森林浴でいうフィト

   ンチッド効果というものでしょう」と言う人がいるかもしれない。フィトンチッドというのは、樹

   木が発散する揮発性物質で、自らの体を守るため、微生物の活動を抑制する効果があ

   る。この物質を吸い込むと、人にとっては気分が落ち着くということで、森林浴が勧められ

   る理由の一つとなっている。

    性格がひねくれているせいもあるが、山を歩いて得られる感覚を、科学的に説明されるこ

   とに、どうしても反発してしまう。それなら、店に行けばフィトンチッド効果のある芳香剤はい

   くらでも売っているし、わざわざ山に足を運ばなくともよいことになる。

    いくら人間の感覚が退化しているとはいえ、そんなものだけで癒されるほど間抜けでは

   ないだろう。山をあるくというのは、五感のすべて、場合によっては森の精霊のように第六

   感でしか捉えることのできない感覚まで解放してくれるはずである。素直に森に入り込ん

   でしまえば、日常の悩みを忘れるだけでなく、霊の存在や、命の循環というものまで肌で

   感じることになる。

    それは、何とも言えない感覚で、家に帰ってみると、得も言われぬ安心感というか、幸福

   感につつまれる。少なくとも、フィトンチッド効果などという、冷めた科学用語で説明してほし

   くないと思ってしまう。

    山を歩くようになって、樹木を観ることが好きになった。人は思っていることと違うことを話

   すことがよくある。そのウラを読み解くことができなければ、勘違いして、自分や相手を傷 

   つけてしまうこともある。だが、樹木は、嘘をつかない。なぜその場所に生を受け、そのよう

   な姿になってしまったか、周囲の環境や樹木の姿を観察することで理解ができる。そして、

   樹木の誇張も見栄もない正直な姿をみて、なぜか安心する。

    大きな傷があれば、その傷は決して消えることなく、長い年月をかけて修復され、変形を

   残す。それは、美しくはないが、すくすくと順調に育った樹木より遥かに威厳に満ちてい

   る。樹木を観察すれば、その樹木が歩んできた物語が想像できるのだが、そんなことを知

   らなくとも、多くの人はその姿を観ただけで、感動を憶える。それは、映画で老俳優が演じ

   ている姿を見て、その姿だけでセリフ以上のものを受け取るというのに似ているかもしれな

   い。

    何はともあれ、父について、妻と三人で山林を回りはじめたのが、今から二十年前のこと

   だった。