森のお医者さん

   

       山をあるく(3) 山で見かけるもの




          


    春は山菜取りの季節でもある。フキノトウはその一番手で、まだ芽が開かない頃が好ま

   れる。茎が伸びて花が咲くようになると、タラやコシアブラの芽、そしてゼンマイ、ワラビへ

   と注目が移っていく。その頃には、誰もフキノトウには見向きもしなくなるが、茎が伸びきっ

   て花が咲いたフキノトウも、なかなかである。伸び切った茎を折り取ってから花を摘んで、

   茎をゴマ油で炒め、しょうゆを少し垂らせば、フキノトウの天ぷらより香ばしい。

    コシアブラは、人気の山菜のひとつである。コシアブラは少し明るい林などに入らないと

   見つけられない。背丈ほどの幼木の場合、頂芽だけ取るのだが、時おりすべての芽が取

   られていることがあり、こういう木は枯死する運命にある。

    穿った見方かもしれないが、山菜取りや山登りが好きなことと、自然を愛することとは、

   まったく別物である。自然を敬う気持ちがなければ、ただ自然の恵みをむさぼっているだけ

   の話である。

    誰も見ていないから、好き勝手なことをするというのもあるだろうが、本当の理由はそうで

   はないだろう。問題はその人が、その土地に対して愛着を持っているかどうかだと思う。  
    自分の庭に咲いている花を、根こそぎもぎ取る人間はいない。山に住んでいる人間は、

   自分の所有地でなくとも、その土地を愛するが故に、節度を守る。外から来る人間は愛着

   がないから、採れるだけ取って先のことには関心がないのだろう。


         

    山菜が採れる場所から離れて、人が入らない奥の方へと進んでいくと、ナラの大木が株

   立ちになっているのを時々見かける。株立ちは、なぜか必ず三本立てである。これには理

   由があって、昔の炭焼き職人が三本に仕立てたのである。

    この地方は、ナラの木を切り倒して炭にするわけだが、伐採すると切り株からは無数の

   芽が出てくる。その中で勢いのいい若木だけを三本残し、株立ちのまま成長させるのであ

   る。もともと根っこが大きいから、あっという間に成長して、十数年後にはまた炭用に伐採

   できるようになる。今では炭も作らなくなってしまったから、その株が放置されて大木になっ

   たまま残ったというわけである。

    用をなす樹木は、若いうちから何度も伐採されて利用されるが、用をなさないと放置され

   れば、大木になりうる。これは人間も同じで、用立つ人間は、いろいろと周囲から利用され

   てしまうと、周囲にとって便利なだけで、案外に大物にはなりにくいものである。

    樹木は、まず根っこから育つ。目に見えないところで、養分を十分吸収できるようになっ

   てからでないと、地上での成長は始まらない。われわれは、ともするとすぐによい結果だけ

   を求めようとするが、根っこが育たないうちから、花が咲くのを期待しても無理である。逆に

   言えば、十分な根っこさえあれば、幹が折れようとも、ふたたび成長することはできるはず

   だ。

         

    杉林を歩いていると、杉の大木が根元から皮が剥がされているのをよく見かける。ツキノ

   ワグマの仕業である。

    春先に樹木の皮は剥がれやすくなっているのをクマは知っている。食料が少ないこの時

   期に、丈夫な爪で杉の皮を引っ掻いて剥がし、その樹液を舐めるのである。実際舐めてみ

   ると、ほんのりと甘く、杉のヤニの味はまったくしない。

    だが困ったことに、幹の周囲半分以上が剥がされてしまうと、その杉は生命維持に必応

   な養分を送れなくなり、枯れてしまう運命にある。実際、杉の間伐方法には、巻き枯らしと

   いって、皮を全周剥ぎとることで、枯らしてしまう方法がある。

    チェーンソーの使えないにわか山師の自分も、この巻き枯らしをやって間伐の真似事を

   やるのだが、鉈を使ってもそう簡単ではなく、これをクマは爪だけで剥ぎ取ってしまう。

    以前病院に勤務しているとき、ツキノワグマの手に顔を叩かれただけで、頬の肉がもぎ

   取られた患者さんを見たことがあり、クマの腕力、恐るべしである。

    クマは当然樹液のたくさんある大木のみを狙うから、最も商品価値の高い杉ばかりが枯

   れることになる。これには、山林所有者も頭を痛めている。もっとも、クマもサルと同様、戦

   後拡大造林で雑木林を伐採して、代わりに杉を植えすぎた結果、餌が少なくなったのだか

   ら、ある意味人間のせいでもあり、しっぺ返しを受けているということだろう。



            

    山をあるいていて、野鳥の鳴き声が聴こえると、思わず立ち止まって聞き惚れてしまう。

   オオルリ、キビタキ、ルリビタキなどのヒタキ類は、夏鳥として東南アジアから日本へ渡っ

   てくるが、姿も鳴き声も美しい鳥である。薄暗い森の中に、鮮やかな青や黄色に彩られた

   小鳥を見つけると、しばし呆然と目を奪われる。街中で美女に出会った時と違い、こちらの

   ほうは、相手を気にせず、じっと見ていることができる。

    鳥は、何種類かの鳴き声をもっていて、仲間と連絡を取り合っている。その中で、最も重

   要なのが、求愛の鳴き声である。きれいな声で鳴くときは、繁殖期にオスがメスを誘うため

   の求愛行動なわけだが、メスはどうやってオスを選ぶのだろうか?

    羽の色や鳴き声が美しいとかは、人でいえば容姿に相当するだろうし、よい縄張りをもっ

   ていれば、安定した収入が保証されているということかもしれない。少なくとも、人間のよう

   に、イケメンだからと、オスの顔つきだけで選ぶようなメスはいないだろう。

    そんなことを考えると、鳥の世界も妙に人間臭くなってしまい、鳴き声に聴き惚れることも

   できなくなってしまう。やはり、鳥の鳴き声は、何も考えずに純粋に聴き惚れるのが、われ

   われ人間にとっては一番である。