森のお医者さん


               きれいな貝殻  





    若いときは、自分の住んでいる世界が、何かちっぽけでつまらなく思えて、もっと理想的

   な世界があるのではと、遠くの方に眼を向けてみたくなる。

    小さい頃は、自分の眼でしか確かめられなかった世界が、大人に近づくにつれて、あふ

   れんばかりの情報が、一歩も外に出ずして手に入れることができるようになる。ただ、そん

   な情報は、その人がどういう人間かにお構いなく、情報を一方的に垂れ流すだけで、情報

   が次から次へと溢れ出て、どれが自分にふさわしい情報かわからなくなったりする。

    就活や婚活もそれに近い。昔は学校に届く受け入れ先の企業から、教師と学生が相談

   してその学生にふさわしい企業を選んでいた。結婚にしても、親戚縁者がこの子にはこん

   な家庭でこんな子だったら合うのではと、紹介してくれていた。

    今はどうかというと、若者の個性や能力とはお構いなく、こんな一流企業もあります、こ

   んなすばらしい相手もいますと、一方的に紹介するだけ。仲介業者も、本人の欠点や短所

   は知る必要もなく、長所を最大限に引き伸ばして、自分の実力以上のものを相手に見せる

   テクニックだけを教えこませようとしている。

    そんな方法で、就職や結婚相手が決まったとしても、どこか満足しきれない自分がいた

   りする。もしかしたら、自分にはもっとふさわしい職業や結婚相手がいたはずでは、と不安

   に思ったりする。

    しあわせというのは、手に届かないものをつかみ取るものではなく、自分の足元にあるも

   のを拾う作業といってもいい。別な言い方をすれば、しあわせの心を持っていなければ、何

   を手に入れたとしても、すぐに輝きを失ってしまう。

    たとえば、休暇を利用して、ある海辺の街に滞在しているとする。朝目覚めて、海辺を散

   歩していると、波打ち際に、いくつもの貝殻が打ち寄せられている。そのとき、ふと、きれい

   だなと思う貝殻を拾ったとする。そのきれいな貝殻を眺めているうちに、貝殻の欠けている

   のが気になり、もっと完全な形で模様のきれいな貝殻があるのではと思い始めたりするか

   もしれない。

    そうなると、その人は、ずっと遠くまで砂浜を歩き続けるようになる。散歩をした時の景色

   を愉しむ余裕など、とうに失せている。ときには棒で砂浜を掘り返したりしながら、よりきれ

   いな貝殻を見つけようとする。しかし、最初に見つけた以上のきれいな貝殻を見つけること

   は、もうできないだろう。

    なぜなら、その人には、目の前のきれいな貝殻を見つけた時の喜びよりも、まだ見たこと

   のないきれいな貝殻を見つけることに、心を奪われているのだから。それぞれの貝殻は、

   それぞれにきれいなはずなのに、心はそれに気づくことができなくなっている。


   目の前の世界で生きることと、目には見えない遠くの世界まで見せられて生きることと、ど

   ちらがしあわせなのだろう。散歩しているうちに、足元に落ちている貝殻の中から、きれい

   だなと思えるものを拾えたら、それでいい。