森のお医者さん


                 Nの恋



    35年も前の話になる。大学のとき、部活の後輩から、こんな話を聞いたことがある。

    Nは、高校に入って野球部に入り、部活漬けの毎日を過ごしていた。そして、3年になっ

   て、夏の県大会が終わったあと、恋をした。

    Nは受験を前にして、勉強が手に付かないくらい思いつめ、ラブレターを書いた。数日

   後、彼女から返事が届いた。恋の扉が開かれたかに思われたが、恋はわずか3か月で終

   わりを告げた。彼女はあくる年、京都の大学へと進学し、Nは受験に失敗して地元の予備

   校に通うことになった。

    予備校に通ってからも、Nは彼女のことが忘れられなかった。夜中に布団をめくっては、

   卒業アルバムを開いて、彼女の顔写真を、何度もみつめた。浪人の身でありながら、勉強

   もろくに手に付かないNは、彼女を諦めきれず、親に大学の下見に行きたいと嘘をつき、

   京都行きの切符を手にして、夜行列車に乗り込んだ。

    夜行列車のボックス席は、がらんとしていた。Nはその狭い空間に身を海老のように折り

   曲げ、不安と興奮の中、夜汽車に揺られた。朝方近くになって、ようやく眠りに付いたかと

   思うと、体の節々が痛くなって、眼が覚めた。窓ガラスからは、明るい日差しが入り込み、

   眩しかった。列車は、京都駅に着いていた。


   駅に降りたものの、彼女の住所は知らなかった。彼女の通う大学を頼りに、駅前のバス停

   に向かった。大学の名前が着いた停留所がすぐに見つかり、そのバスに乗り込んだ。腹

   は空いてなかった。

    大学に着いて、Nは途方にくれた。田舎出身のNには、そのキャンパスは想像以上に広

   大だった。Nは急に空腹をおぼえ、近くの店でパンと牛乳を買い込み、まだ学生がまばら

   なキャンパスにあるベンチに座りこみ、パンを牛乳で胃袋に押し込んだ。Nは正門で待ち続

   けることにした。

    門を通り抜ける大学生は、みんな自分より大人びていた。浪人のNは肩身が狭く、みじめ

   な気分だった。彼女に会いたいのに、怖かった。夕方まで待ち続けたが、彼女はその門を

   くぐることはなかった。

    次の日の朝も、Nは校門前の同じ店でパンと牛乳を買い、ベンチに座っていた。昼近くに

   なって、数人の女友だちとおしゃべりをしながら、門をくぐろうとする、彼女の姿を見つけ

   た。Nは、心の準備をしていたはずなのだが、うろたえていた。反射的に彼女から眼を逸ら

   し、学生の雑踏の中に身を隠し、彼女を遠目からじっと見つめた。Nはひとつ大きく息を吸

   って吐いてから、勇気を奮い起こし、彼女を後ろから追いかけ、声をかけた。

    彼女が振り向いた。彼女は、目を大きく見開き、驚いた様子だったが、すぐに困惑した表

   情に変っていた。Nはその表情にくじけることなく、夜行列車の中で何度も暗記したとおり

   に口を開いた。周囲の女友だちが振り向いて怪訝そうにNを見つめる中、彼女は夕方に会

   うことに、うなずいてくれた。

    その晩、Nは彼女と近くの喫茶店で、一時間ばかり話をした。二人の話は途切れがち

   で、彼女の不自然なやさしさが、Nを失望させた。弾んだ話のないまま、ふたりは店を出

   た。別れのあいさつに、彼女が口を開こうとしたその瞬間、おれと付きあってください、とN

   は深々と頭を下げた。彼女は視線を下に向けたまま、口を開くことはなかった。

    Nはその日の夜行列車に、再び乗り込み、行きと同様に狭いボックス席に海老のように

   身をかがめて、夜を過ごした。結局Nは、その年も受験に失敗し、翌年地元の国立大学に

   入学した。

    その告白を聞いてから一年たったある日。友人と、ある喫茶店で食事をしてレジに向か

   おうとした時、一組のカップルが前に立っていた。そこに、Nの姿があった。恋人は、同じ

   部活の後輩だった。財布を開いているNの後ろで、恋人は控えめに立っていた。


   それを見て、ほんの少しだけがっかりしたが、思わず顔がほくそ笑んでいた。