森のお医者さん


            動機



    ここに、ひまわりの種がひとつあり、農夫がそれを畑に植えるとする。その種を植えたあ

   とに、カボチャの実が成りますようにと、農夫が毎日願ったとしたら、カボチャの実がなるこ

   とはない。

     あるいは、カボチャの種には違いないのだが、その種は干乾びている。それを農夫が

   畑に植え、肥料も十分やり、陽の光にも十分あて、水分も過不足なく与えたとして、大きな

   カボチャの実を期待できるだろうか?

    ある果実を期待するのであれば、その果実になるべき種を植えなければならない。大き

   な果実を期待するには、良い種を選別しなければならない。そんなことは誰でもわかって

   いることだが、これが複雑な人間の世界になると、話は違ってくる。期待している実とは、

   まったく関係のない種を植えてせっせと努力してみたり、良い種かどうかも判断できずに植

   えてしまっていることがしばしばある。 

    たとえば、同期で入社した営業マンがふたりいるとする。能力はほぼ同じくらいで、ふた

   りとも優秀である。ひとりは抜きんでた成績を上げて、将来は取締役にまで上り詰めてやろ

   うという野心を抱いて努力している。もうひとりは、人の役に立てるように、良い仕事をした

   いと思って同じように努力している。上司から見ると、ふたりの姿は、一生懸命努力してい

   るという点では、同じように映っている。しかし、その後のふたりの人生は、中身の点では

   まったく違ってくるだろう。

    ここで、なにが種かを考えてみる。種とは、彼らの仕事の、動機である。ひとりの種は、

   出世してやろうという野心、もうひとりの種は、人の役に立ちたいという良心である。野心

   のどこがいけない、と言う人もいるかもしれない。たしかに、野心自体は悪くはない。だが、

   この社員の野心のうら側には、自分だけという、利己心が隠れている。利己心を野心とい

   う種と勘違いして、その利己心をせっせと育てている。

    それでは、実とはなにか?最終的な会社での肩書き、ではない。肩書というのは、仕事

   を辞めてしまうと、本人だけが大事にしているだけの話で、周囲にとっては疎んじられる厄

   介なものでしかない。本当の実とは、人間性である。これは死ぬまで(正確には、死んだ

   あとにも)消えずに残っていくものである。

    良い動機があれば、良い結果が期待できるし、不純な動機であれば、自らその報いを受

   けなければならない。なにか行動を起こそうというとき、それがどういう動機に基づいてい

   るのか、よくよく考える必要がある。

    利己心の少ないものであれば、自然と良い人間が集まるようになり、さまざまなところか

   ら手が差し伸べられ、良い環境が出来上がっていく。結果として、自ら努力しながらも、他

   者の力の手助けを受けて成功することが多い。

   利己心だらけの動機であれば、誰も助けてくれないし、利己心に捕らわれた人間ばかりが

   集まって、劣悪な環境の中に身を投じるようになる。さらに、形ばかりの実を奪い合うこと

   になり、人間性を貶めていくことになる。

    動機と結果は常につながっている、これは神様の法則と言ってもいいし、自然の法則と

   言い換えてもいい。この法則から逃れることは、誰ひとりできない。動機は、わたしたち人

   間にとって、大事な種である。