三密 ある土曜日の夕方、妻と娘の3人で居酒屋でも行こうかという話になった。コロナ禍で、外食はできるだけ避けていたのだが、その日は何となく、そんな気分になっていた。 外食業界はどこも客足が遠のいて経営が大変だと聞いていたので、簡単に予約が取れると思っていたら、意外だった。どこに電話をかけても予約で満席だった。そのうち、娘が(カウンター席ならあるっていうけど、どうする?)、と言うので、(じゃあそこでいいよ)ということになった。まったく聞いたこともない店だった。 車のナビで近くまで来ると、音声案内はここで終了します、というのだが、まったく店の看板は見当たらなかった。仕方なく、近くのコインパーキングに停め、歩いて探すことになった。 日はとうに暮れ、周囲にネオンがポツリポツリと光っていたが、人通りはほとんどかなった。すると、古い集合ビルの一角に、その店の看板が小さく光っていた。階段の脇に錆びたレトロ調の手すりが付いていて、昭和の賑やかだった時代の雰囲気を残していた。階段を上がっていくと、その先は真っ暗でどのドアも閉じていた。二階じゃなかったのかと思い、下に降りて、狭い通路を行くと、明かりがひとつ灯っていた。 中に入ると、ちいさな空間だった。小上がりにある二つのテーブルには六十代と思しき男たちが十数人でごった返し、騒々しい声で盛り上がっていた。カウンター席は五つあって、端には七十過ぎと思しき男がひとりで銚子を傾けていた。カウンターの向かい側には、女将とその従業員が二人、全員マスクなしだった。換気はというと、焼き鳥の煙を吐き出すためのちいさな換気扇がクルクル回っているだけで、完全な三密だった。コロナとは無縁と信じきっている人たちが、そこにいた。 事情を説明して、そのまま帰ることもできたのだが、何となく椅子に座ってしまった。妻と娘は、マスクを取ろうとしなかった。注文が済んでからも、女将は、場違いの店に入ってきてしまった客に対し、(混んでしまってすいませんねえ)と多少申し訳なさそうに愛嬌を振りまいたが、妻と娘は黙ったままだった。 すでに、早くも帰りたいという雰囲気がひしひしと伝わってきた。しかし、注文した芝エビと空豆の天ぷらはというと、空豆の皮を一つひとつむいたり、エビの殻をはずすから作業から取りかかっていて、かなりの時間がかかることが予想された。 わたしは頻回に呑まなければいけないのでマスクは外していたが、ふたりとも、飲んではマスク、食べてはマスクだった。(まあ、田舎町の居酒屋なんだから、そんなに心配しなくても)と思うのだが、わたしが言ったところで、警戒を緩めるような雰囲気ではなかった。 後ろでは、相変わらず大声や笑い声が飛び交っていて、女将もわたしたちの頭越しから、大きな声で会話に参加していた、もちろんマスクなしだった。隣のカウンターの老人も、一人静かに飲んでいるのが好きなのかと思いきや、女将から声を掛けられると、一気にぺらぺらと饒舌になり、目尻が下がっていた。一人しんみりしていたのは、一人呑みが好きなのではなく、女将との会話を待っていただけのようだった。結局、客はみんな常連ばかりで、わたしたちだけが異質だった。 なんとか料理も食べ終わり、すぐに会計を済ませて店を出た。あたりは相変わらずネオンも少なく薄暗く、人通りもなかった。ふと、千と千尋の世界から出てきたような錯覚を覚えた。もしかしたら、明日の朝あの店に行ったら、ドアに釘が打ちつけられていて、ずっと前から閉まっていた、などと不謹慎な考えが一瞬頭をよぎった。 帰りの途中、娘が妻に向かって、小さく口をひらいた。「店の選択、まちがったかもね・・・」

森のお医者さん


               三密



     ある土曜日の夕方、妻と娘の3人で居酒屋でも行こうかという話になった。コロナ禍で、

    外食はできるだけ避けていたのだが、その日は何となく、そんな気分になっていた。

     外食業界はどこも客足が遠のいて経営が大変だと聞いていたので、簡単に予約が取

    れると思っていたら、意外だった。どこに電話をかけても予約で満席だった。そのうち、

    娘が(カウンター席ならあるっていうけど、どうする?)、と言うので、(じゃあそこでいい

    よ)ということになった。まったく聞いたこともない店だった。

     車のナビで近くまで来ると、音声案内はここで終了します、というのだが、まったく店の

    看板は見当たらなかった。仕方なく、近くのコインパーキングに停め、歩いて探すことに

    なった。

     日はとうに暮れ、周囲にネオンがポツリポツリと光っていたが、人通りはほとんどかな

    った。すると、古い集合ビルの一角に、その店の看板が小さく光っていた。階段の脇に

    錆びたレトロ調の手すりが付いていて、昭和の賑やかだった時代の雰囲気を残してい

    た。階段を上がっていくと、その先は真っ暗でどのドアも閉じていた。二階じゃなかったの

    かと思い、下に降りて、狭い通路を行くと、明かりがひとつ灯っていた。

     中に入ると、ちいさな空間だった。小上がりにある二つのテーブルには六十代と思しき

    男たちが十数人でごった返し、騒々しい声で盛り上がっていた。カウンター席は五つあっ

    て、端には七十過ぎと思しき男がひとりで銚子を傾けていた。カウンターの向かい側に

    は、女将とその従業員が二人、全員マスクなしだった。換気はというと、焼き鳥の煙を吐

    き出すためのちいさな換気扇がクルクル回っているだけで、完全な三密だった。コロナと

    は無縁と信じきっている人たちが、そこにいた。

     事情を説明して、そのまま帰ることもできたのだが、何となく椅子に座ってしまった。妻

    と娘は、マスクを取ろうとしなかった。注文が済んでからも、女将は、場違いの店に入っ

    てきてしまった客に対し、(混んでしまってすいませんねえ)と多少申し訳なさそうに愛嬌

    を振りまいたが、妻と娘は黙ったままだった。

     すでに、早くも帰りたいという雰囲気がひしひしと伝わってきた。しかし、注文した芝エ

    ビと空豆の天ぷらはというと、空豆の皮を一つひとつむいたり、エビの殻をはずすから作

    業から取りかかっていて、かなりの時間がかかることが予想された。

     わたしは頻回に呑まなければいけないのでマスクは外していたが、ふたりとも、飲んで

    はマスク、食べてはマスクだった。(まあ、田舎町の居酒屋なんだから、そんなに心配し

    なくても)と思うのだが、わたしが言ったところで、警戒を緩めるような雰囲気ではなかっ

    た。

     後ろでは、相変わらず大声や笑い声が飛び交っていて、女将もわたしたちの頭越しか

    ら、大きな声で会話に参加していた、もちろんマスクなしだった。隣のカウンターの老人

    も、一人静かに飲んでいるのが好きなのかと思いきや、女将から声を掛けられると、一

    気にぺらぺらと饒舌になり、目尻が下がっていた。一人しんみりしていたのは、一人呑

    みが好きなのではなく、女将との会話を待っていただけのようだった。結局、客はみんな

    常連ばかりで、わたしたちだけが異質だった。

     なんとか料理も食べ終わり、すぐに会計を済ませて店を出た。あたりは相変わらずネオ

    ンも少なく薄暗く、人通りもなかった。ふと、千と千尋の世界から出てきたような錯覚を覚

    えた。もしかしたら、明日の朝あの店に行ったら、ドアに釘が打ちつけられていて、ずっと

    前から閉まっていた、などと不謹慎な考えが一瞬頭をよぎった。

     帰りの途中、娘が妻に向かって、小さく口をひらいた。「店の選択、まちがったかも

    ね・・・」