老木のひとり言

   

     今から百年ほど前に、わたしは、ある屋敷で芽を出しました。多くの仲間

   は、風の赴くままに飛ばされ、地上に芽を出すこともなく、短い命を終えて

  いきました。その点、わたしは幸運でした。わたしたち樹木は、多くの幸運が

  重ならなければ、この世に生きていくことはできません。

   地上に根を出してから、二十年ほどは順調に成長していきました。わたし

  も、周囲の大木と肩を並べる日もそう遠くないと思われました。

   しかし、人生いいことばかりは続かないものです。ある日、屋根に降り積も

  って 凍みた雪の固まりを、人間が放り投げ、大事な幹がポッキリと折れてし

  まったのです。

   以来、わたしが得た養分は、折れた幹の修復に使われることになりました。

  何年かすると、もう大木の仲間入りをすることは、諦めねばなりませんでし

  た。それどころか、自分の人生に、大きなハンディキャップを負うことになり

  ました。

   折れた幹のせいで、わたしの体にはぽっかりと穴が開き、その傷口は徐々に

  広がりました。とうとう、体には大きな洞ができ、幹の周囲の半分は朽ちて、

  残り半分の幹だけで生きていかねばなりませんでした。いまでは、体は不恰好

  に傾き、醜い姿になりました。

   あなたたち人間の中には、こんな姿を晒しながら生きるのは嫌だと、人生を

  投げ出したくなるかもしれません。でも、それは今の自分と過去の自分を較べ

  たり、将来の人生を不安に思ってのことです。わたしたち樹木は、今そのとき

  だけを生きていますから、過去を懐かしむこともなければ、将来を悲観するこ

  ともありません。

   こんな姿になりましたが、百年も生きていると、わたしに興味をもつ人間が

  現われてきました。そのうち、かれらは腐った幹の修復やら、枝の剪定をし始

  めました。かれら人間は、姿かたちのよいものばかりを愛でるかと思っていた

  ら、どうもそればかりではないようです。長い年月によって刻まれた、この不 

  恰好な老体に心を動かされることもあるようです。

   わたしは、特別な生き方をしてきたわけではありません。春になれば葉を広

  げ、夏になれば緑の葉を濃くして養分を蓄え、秋になれば冬に備えて葉を落と

  し、冬には来年のための芽を育て、ただそれを繰り返しながら、生きてきただ

  けなのです。ただ、年月というのは、その歩んだ道を、少しずつ姿かたちに変

  えていくようです。

   さて、そろそろ春が近づいてきました。芽を膨らませ、葉を広げる準備をし

  なくてはなりません。