樅(モミ)は、針葉樹であり、いわゆる高木といって、大木になる。小さい頃
から、実家の門の前に、すでに大木になっていた樅の木が立っていた。
小学生の頃だった。夏の暑い盛り、学校からの帰り道に樅の下を通ると、汗ま
みれの肌に、松ヤニのような匂いとともに、ひんやりとした空気が肌に伝わっ
てきた。冬になり、学校帰りに門を通ったとき、樅の枝にかぶさっていた雪が上
から崩れ落ち、頭に落ちたことがあった。見上げると、糸を引くように、一筋の
雪が舞い落ち、葉っぱがかすかに揺れていた。
家に帰るとき、いつも樅の木が立っていた。わたしは、自分の好きな木を挙げ
ろと言われたら、この樅の木をそのうちのひとつに挙げたい。
明治の頃、祖父が兵役義務の身体検査を受けたとき、小さな樹木の苗を、その
記念として門の前に植えた。それが、樅の木だった。祖父が植えたと知ったの
は、祖父が死んで二十年以上経ってから、父から知らされた。祖父はわたしが二
歳のときに、脳溢血で倒れ、まもなく寝たきりとなり、以来十年間、闘病生活を
送った。祖父といえば、離れの隠居部屋で寝ていた姿しか、記憶にない。
小学校に出かける前、母親に言われ、ときどき祖父の部屋へ行った。廊下を通
って襖を開け、正座してから「行ってきます」と伝えた。その頃の祖父は、目は
ほとんど見えず、耳も遠くなっていた。枕元にいた祖母は、それを祖父の耳元に
伝えた。口のきけない祖父は、それを聞くと、いつも涙をこぼして、小さなうめ
き声をあげていた。
自分の大事にしたいもの、それはすべて背景に物語がついている。宝くじで当
たった一千万円で買った宝石よりも、小さいとき父親と川原で拾った石ころのほ
うが大事であるように、あるいは、一流レストランで食べるフランス料理より
も、遠足で母親に握ってもらったおにぎりのほうがおいしいのも、それらには、
自分の物語がついているからである。物語のないものは、どんなに高級でも、高
価なものでも、味気ないし、そんなものは、自分にとっての真のブランドではな
い。自分のブランドに気づかず、あるいはブランドを持たない人間が、いわゆる
世間でいうブランド品に安易に飛びついている。